失敗談(新卒篇)
 企業活動を「粗利をたたき出す収益運動」と信じてやまない経営者のひしめく中で、私たちは「共同体建設」を企業の第一義的課題として揚げ、「勝利は最善である」などという甘い認識ときっぱりと訣別し、「勝利は唯一無二である」とのテーゼに全社一丸となっている。なぜならば、こうすること以外に前述した課題の実現はないからだ。  今回、失敗談を発表するが、本音と建前をソツなく使い分けることが「人間的成熟度」と勘違いされる時代、事なかれ主義がわがもの顔に大手を振って闊歩する時代、責任の負担表明なき自己主張の乱舞する時代、こういう時代だからこそ、この負の体験はことのほか価値があるのではないだろうか。
 そこで、過去の失敗事例に基づいて、あくまで最大公約数的ではあるが、慎重に事を運んだほうがいい人について紹介してみよう。人とは採用し、使ってみないと分からないのも事実だが、これらはちょっと工夫しさえすれば、選考試験ですべて識別可能だ。よって採用する側は、組織防衛上、是非参考にしていただきたい。また、応募する側は、万が一、当てはまるものがあれば、直ちに自省し、企業の一員になる覚悟を改めて固め直してもらいたい。しかし、まずは良き国民、立派な日本人になることから出発し直すべきだ。さすれば、必ずや「良縁」に巡り合うことであろう。

条件面にあまりにもこだわる人

 自分が周囲にしてあげることより、周囲が自分にしてくれる事に、より一層の関心を持つ人で、うちのようなサービス業には向かない。業務の履行・励行より権利の主張・獲得に傾斜した考えの持ち主が多い。「採用してもらってありがたい」というより「不満があるが、入社してやる」と思っている。また、仕事そのものより条件に最大の関心があるので、条件さえ折り合えばサッサと転職してしまう。条件がすべてで、仕事はそれにくっついている付録のようなものだという考え方の持ち主で育て甲斐がない。

大企業のシステムが「絶対善」と信じて疑わない人

   大小と善悪や優劣は関係ない。しかし大は善で優、小は悪で劣という固定観念にとらわれている人が意外と多い。また機能的で合理的な大手のやり方に憧憬に近い気持ちを抱いている経営者もいる。大男・大女が善で小男・小女が悪であるなど笑止千万。大手企業にはそれなりの文化・伝統もあるだろうが、中小零細にはもっと素晴らしい文化・伝統がある。こうした関係の中に善悪・優劣の価値基準を持ち込むほど不毛なことはない。いわば、大小の問題は「水」の問題。すなわち「大手文化」を絶対善と信じて疑わない人は「中小の水」に合わせるのに時間と年数がかかりすぎる上に、その間に予想される配属先での文化的軋轢を考えると、スタッフとして隔離したポジションとスペースが確保されない限り、どんなに能力(自称)があっても慎重になるべきだ。中小でいう「公私融合」を大手では「公私混同」と呼ぶらしいがこれも文化の違いだろう。

反日感情の持ち主

 後天的な教育によるのであろうが、わが国が嫌いな人に企業が忠誠心を期待しても土台無理な話。階級史観の呪縛から解放されていないこの手の人は大体において企業の経営者とか商店主を「悪人」と決め付けている。また猫の額ほどの土地しか所有していない人に対して敵愾心すら抱いている人もいる。また、自分の上司にだけは絶対従うまいと心中ひそかに決意していることだってある。『獅子心中の虫』とはまさにこういう人たちを指す。このような考えであるか否かを的確に見抜く設問こそ入社試験に組み込まれるべきだ。なお、この範疇(はんちゅう)には国民に「反日・抗日・悔日教育」を施しているお国からの留学生や、その国籍者も含まれる。ある国の国籍を持つ高校生に「お国から私たち日本人を拉致せよ、と命令がきたらどうするか」と尋ねたことがある。彼女は答えられなかった。ただ一言「自分の家族のことを思うと反対できない」と寂しそうにつぶやいたのが印象的だ。あどけない顔をした18歳の娘だったが丁寧に説明してお引き取り願った。応募の自由や権利も大切だが、それよりもっと死活的なのは企業を防衛する自由や権利だ。

自分の出自や親の職業を堂々と言えない人

 やくざ者でさえ「手前、生国は・・・」と口上を述べたものだ。堅気の商売に飛び込む人が何で「故郷」を述べられないことがあろうか。盗み・火付け・殺人・麻薬・売春などが「親の仕事」であるならともかく、この世で堂々と言えない職業はない。「国憲を重んじ、国法に遵う業(なりわい)」である限り、堂々としかも目を輝かせて親の職業を言うべきである。人様のお役に立っているなら、何故「職業」を恥じることがあろうか。むしろ、健康な身体を両親から授かりながら、「一向に働こうとしないこと」こそが恥ずべきことなのだ。親の職業を恥じる心がある限り、その人は自らを採用し雇用してくれた会社を誇ることはないであろう。

営業を忌避する人

 入金(売上)を達成していく苦労は拒否しながら、出金(給与支給)にはあやかりたいというチャッカリ型で、中小企業にとっては「お荷物」である。全員営業、すなわち「社員皆営」でないと成り立ちようがないのが中小零細である。これがこの世界の文化であり文明であり価値なのだ。こういう文化や価値はたとえどんなに大きくなっても忘れず持ち続けることが肝要である。国家でいえば、それこそどんなに歴史や文化や伝統を誇ろうと、はたまたその政治的円熟や経済的繁栄を謳歌しようと、「国民皆兵」の原則を崩したらいけないようなものだ。一に営業、二に営業、三、四がなくて五に営業、これが中小企業の誇るべき文化と価値である。確固不動のこのテーゼの無条件的承認こそが採用の絶対条件である。

気品と気迫に乏しい人

 親の躾や家庭の教育がいかに大切かということだ。「嫁を取るなら親を見ろ」ともいう。親がしっかりしているなら恐らくその子供もしっかりしているだろうと思うのは 多くの人の常識だ。門地・身分・職業・地位・学歴・収入・地域・国籍などに関係なくしっかりと子育てをした親か否かを確認する必要がある。あるいはお天道様のもとで正々堂々とした生き方をしてきたか否かをつかんでおく必要もある。正面にせよ反面にせよ、子どもにとって親の影響ほど大きいものはない。正社員の採用とは「結婚」みたいなものだ。家族よりも長い時間と年数、顔を突き合わせて行くのが社員である。しっかりとした躾がなされていない人を採用して、箸の上げ下ろしまで指導させられるのはご免である。育ちの悪い人、品のない人、気迫の乏しい人を採用するとどうしても職場のグレードダウンを招くし、下手をすると良貨まで駆逐される。国の労働行政に協力するのもいいが、その結果、必然的に発生する「負の果実」に対して彼らは決して救いの手を差し伸べてはくれないということを心しておくことも大切である。

「父権」がないか、ないに等しい家庭に育った人

 女手一つでも立派に子育てができる人もいる。逆にふた親揃っていながらてんでダメな場合もある。これは一にも二にも父権があるか否か、あるいはそれを構築していこうとしているか否かによる。父権の確立されていない今日の教育現場を見よ! 成立しない授業が全国でゴマンとあるではないか。
 過去の経験からいえることは①自己中心的(わがまま)で、②情緒不安定、そして、③絶対に責任を引き受けようとしないのが、かくなる家庭で育った人の性向といえる。 情緒的・感情的にしか物事を捉えられないのでは企業活動の中での共同作業はやっていけない。理論的な検証とか系統だった思考がおざなりにされ、周囲の様々なベクトルへの手抜かりのない配慮に欠けると、健全な企業活動はまたたく間に齟齬をきたす。「好き」だとか「嫌い」だとかで全てが一刀両断されたのでは周囲はたまったものではない。ゆえに、己自身の感情を100%コントロールできることが企業に身を置く者の不可欠の条件だ。この資質なくして「対人業務の遂行」は不可能である。『相手を制せんと欲さば、まず己を制せよ』である。そしてこの自己抑制の徳は「父権不在の環境」からはなかなか育ちようがない。

端麗な容姿を実力と思っている人

 このタイプは私たちのような奉仕活動にはむかない。私たちが配慮し気をくだくのは、あくまでカウンターの外側に位置している顧客である。同僚や上司からチヤホヤされることを期待して入社してもらっては困るのだ。カウンターの内側に、すなわち仲間や同僚の中に「お客様」を抱えたらいけない。私たちは額に汗して一緒に重荷を背負ってくれる人を求めている。なにもキレイな人を求めているのではない。むしろ「心のお化粧」や「精神の身だしなみ」をこそ絶やさない人を求めている。つまり、面接時の印象など最低でいいし、「まごころ」と「ひたむきさ」さえ感じとれればいい。その上に「辛抱強さ」まで加わればいうことはない。

履歴書記載に不備欠陥のある人

 事柄を甘く(なめて)考える人で、仮にそうでないとしても能力的に問題がある。履歴書には必要最小限の情報しか記入できない。それさえ満足に記入できないようでは先が思いやられる。企業活動とは弾丸や爆弾こそ飛び交わないが、形をかえた戦争である。決して「ごっこ」ではない。つまり自分という商品を売り込むパンフレットである履歴書さえまともに書けない様では、企業がその人に営業用パンフレットの作成を任せられるわけがない。だから、こういう人は論外として書類選考の段階で排除する。

当方の問いかけに黙秘権を行使する人

 採用する側に問いかけたり、問いかけなかったりする自由や権利があると同様に、応募する側にも回答したり、回答しなかったりする自由や権利がある。しかし、私は自分の子どもたちに「面接官に尋ねられたことについては胸を張って堂々と答えなさい。決して嘘をついてはいけない」と教えてきた。これは当校の卒業生に対しても同じである。
 現実に職場で席を並べて働く段のことを想起すればもっと判りやすい。問いかける側、採用する側の質問基準より、応募する側の回答基準を優位に置く考え方に与するわけにはいかない。組織内に入れたら、それこそ「職制」が機能しなくなる。企業や官庁を問わず、組織活動から指示・伝達や報告という行為を除いたら、一体何ができるであろうか。それこそ「烏合の勢に異ならず」だ。
(平成22年3月5日 記)

Back to Top