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募集職種と勤務条件
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応募方法
下記から履歴書・調査票をダウンロードして必要事項を記入の上、FAX・Mail・郵送で人事課宛にお送り下さい。
送付先
〒810-0001
福岡市中央区天神1-3-38天神121ビル13階
九州不動産専門学院グループ 人事課(徳田)
TEL (092)714-5353 FAX (092)725-3190
E-mail mate@l-mate.com
※面接日など後日通知いたします。
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終身雇用と実力主義
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「わが国における経営のキーワードがあるとすれば、それは終身雇用と実力主義を両立させることだ」
これは30年間に及ぶ学校経営で学んだ私の確信ともいえる結論である。
年齢の「老は」は実力の「老い」ならず
いきなり具体的な話になるが、当社(九州不動産専門学院)社員の定年は70歳である。しかも、70歳の誕生日を過ぎても、本人が健康で働く意思と能力がある限り嘱託勤務の道もある。現にこの形での嘱託第1号であるSE担当者は、満80歳である。
彼の現在の守備範囲はコンピューターとインターネットである。自社担当部分と外注依存部分をすべての業務分野で並立させている当社のケースでは、80歳の彼はコンピューターにおけるシステム開発やパソコンでのホームページ開発の分野において、それこそ枢要なメンバーの1人になってもらっている。もちろん、毎日出社は70歳で卒業、それ以降は週2日、75歳からは週1日、80歳になった今では月2日の出社に切り替えてもらい、その形を最低1年間は継続してもらうようにしている。あとは誕生日ごとの年次更新や内容改訂で対応している。
私が年配の社員をどう遇するかは、他の社員にとっては(口にこそ出さないが)相当の関心事であるらしい。人間誰でも平等に訪れてくる「老い」の問題に企業は的確に回答を出さなくてはいけないし、以上の処置が現在の当社の答えと思っていただいて差し支えない。
実力主義は雇用形態か?
さて、新聞やテレビなどのマスコミは「リストラ」という言葉を氾濫させ、「実力主義の採用=終身雇用の廃止」なる風潮を煽(あお)り立てるのに余念がない。こうした風潮に異議を覚えるのは私1人だけではないだろう。なぜなら「実力主義」とは「人事考課の基準」を言っているのであって、「雇用形態の種類」である「終身雇用」と同列に扱い、論じるわけにはいかないからだ。両者は次元も位相も完全に異なる問題なのである。
企業経営の目的とは・・・
私は、企業経営の目的は単純に次の3つしかないと思っている。それは、①顧客への良質で安価な商品の継続的な提供、②その商品提供主体たる社員の終身雇用、③以上をもってする国家国民への貢献である。そして「いかにして①と②と③の目的を同時に実現していくか」という設問になって、はじめて「利潤」という概念が必要となってくる。この点、マルクス経済学では、企業経営の目的①・②・③を意図的に捨象していきなり「利潤の追求」を経営目的にスリ替えるという離れ業を展開している。これはありもしない階級対立を煽り立てるために巧妙に仕組まれた「ためにする理屈」であって、到底いただけるものではない。その証拠に旧も新も含めて共産圏では、なかなか市場経済が成り立たない。当たり前といってしまえばそれまでだが、企業経営の目的のひとつである「顧客への良質で安価な商品の継続駅な提供」が全く欠落しているからにほかならない。マルクスが終生口にしなかったことのひとつに「お客様」という言葉があるが、その思想的影響下の体制だから推して知るべしであろう。
目標は目的に奉仕させよ
さて、話を本題に戻そう。企業は①商品提供、②終身雇用、③国家貢献という3つの「目的」を達成するために、利潤の追求という「目標」を掲げるわけだが、それを「効果的・効率的に」成就させるために様々なシステムやノウハウが考案され、体系化されてきた。つまり、「年功序列」や「実力主義」といったものは人事考課面でのシステムやノウハウというわけだ。ここまで展開すれば賢明な皆様は既にお気付きいただけると思うが、「実力主義」とは、企業経営の目的のひとつである「終身雇用」に奉仕する手段(目標)に過ぎないのである。
三世代共存企業、かく成り立てり
私は経営者としてまず第1になすべきことは、社員の雇用を保証することだと考えている。終身雇用とは経営者(トップ)が社員の一生を預ることであり、それは取りも直さず、社員の側からいえば生涯かけて、自己の最大の能力を顧客に提供し、国家国民に貢献することにほかならない。当社の場合、冒頭に申し上げたように定年は70歳と規定している。しかも、それで「おさらば」ではない。結局、20歳から70歳までの三世代が共に現役で働ける職場が当社の例であり、年長者、年配者の智恵や配慮が若い人に職場で脈々と継承できる仕組になっている。
実力主義の風土にこそ終身雇用の花が咲く
そして、以上のような職場環境をつくるために、私はこの30年間の学校経営で徹底して「実力主義」を人事考課の基準にしてきた。しかも、「年功序列」のベースの上に
上手に機能させてきたと思っている。すなわち当社の「終身雇用」(目的)は「実力主義」(目標)の風土の上にはじめて花を咲かせることができたのである。「実力主義」を「終身雇用」に奉仕させる形で両者は完全に両立するし、両立させるべきであるというのが結論である。
(平成22年2月24日 記)
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業績悪化と解雇は矛盾する
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近頃、といってもここ十数年の傾向であるが「業績悪化」を理由に「リストラ」と称して長い間務め上げてくれた社員を解雇する企業(経営者)が後を絶たない。
リストラという危機の先送り
大分前になるが、ゼネコン準大手の熊谷組が社員3人につき1人の割合で解雇したことがある。しかし、特定の人々の給与水準を維持するために他の人々の首を切り、その場しのぎ的な対処療法をしたところで、いずれ同様の危機が巡ってくる。職場では「次は誰か」と囁かれ、忠誠心など何処吹く風、面従腹背と「事なかれ主義」の横行する殺伐とした風土がかくしてできあがる。あとは推して知るべし。転落の一途だ。違いは経営破綻が社会的に露呈する時期が早いか遅いかだけである。以前の例でいえば、巨大デパート「そごう」をはじめ、北海道拓殖銀行、長期信用銀行、日本債権信用銀行、そして最近では「日本航空」その他あまたの大手倒産企業にしても、かつて「リストラという人員整理」で危機を「先送りした」経歴を持つところばかりだ。そして、当時の経営者はその処置がいかにその場しのぎ的な療法であったかを今ほど実感している時はないであろう。
一例を挙げよう。10人乗りのカッターが浸水してこのままでは沈みそうになる。「お前たちが乗船していたのでは沈んでしまう。だから3人に1人は船から海に飛び込んでくれ!」。これが現下の大手企業の「常識的で一般的な切り抜け方」であった。かくして、海には数え切れないほどの溺死者が浮游、腐乱することになる。たとえ「今日はある企業」でもこれでは死者の怨念がその存在を許すはずはあるまい。
不景気だからこそ人員採用
当社(九州不動産専門学院)の職場では逆だ。不景気になればなるほど採用人員を増やしていく。浸水してくる水をかき出す人、浸水個所を探し出す人、発見したその個所を修復する人など、浸水前よりはるかに多くの人が必要になってくるからだ。それに、順風満帆で航海していた時と違って、失敗すれば一蓮托生、全員が海の藻屑なので、乗組員の精神的集中度も格段に違ってくる。個人のおかげではなく、全員の意思統一と協力のたまものとして危機を脱することができたという共通の体験を味わうことができるのだ。
業績悪化には非借入と給与減額で対応せよ
さらに具体的に説明しよう。業績悪化には第一に「非借入」で対応することである。これは口でいうほど生易しいことではない。まず、経営者は報酬を取ってはいけない。当たり前といってしまえば当たり前だが、これが意外に守られていない。ここで「仕事と社員とお客様が好きで経営者になった人」と「儲かるから経営者になった人」とに峻別される。後者は消え去り、前者は残る。しかし、これだけではまだまだ不十分だ。同様のことを社員に覚悟させ、納得させないといけない。とはいっても、人は霞(かすみ)を食っては生きてはいけないので、そこを「やりくり」して何らかの生活の糧をできるだけ準備させないといけない。ここで「耐え忍ぶ」という力がつくことになる。
それでも好転しない場合、いよいよ減額の実行と支給日の変更、またそれをベースにした周辺部分への協力の呼びかけをする。給与の減額で言えば当社では最大75%まで控除したことがある。つまり25%しか支給されない計算になるが、解雇よりはよっぽどいい。企業にとって解雇とは絶縁を意味する。たかだか業績の悪化程度で絶縁したのでは、その経営者は最初から会社を始める資格はない。
支給日については、一斉支給を2段階、3段階支給に改めていく。もちろん、職階と給与の高いメンバーは1ヶ月遅れ、2ヶ月遅れ、そして3ヶ月遅れ、といった具合に経理がきつくならないように配慮している。
周辺への呼びかけは最後の手段
周辺への呼びかけとは、仕入先に対する協力要請を指す。しかし、これは最後に回すべきだろう。なぜなら安易に矛盾を周囲に押し付けて自助努力しない企業があまりにも多いからだ。相手方に協力を要請する場合は、まず己自身が八方手を尽くすことが前提である。自らが血を流す覚悟と実践なしに他人に出血を強要するなど論外というほかはない。
共同体の建設こそを最上位に
企業とは一つの運命共同体だ。業績悪化などという理由で解雇していたのでは存在意義がないはず。自分の給料が下がったからといって、妻や子と縁を切る夫や親がいるだろうか。下がった給料のもとで一家が共に耐え忍び、次なる飛躍の時まで頑張るしかないではないか。これが「共同体」というものだ。
1日3食に慣れた人が、1日2食に、そして1食にすることは大変なことに違いない。しかし、たとえ1日1食でも家族の中の誰をも殺さないことが肝要である。だから私は業績悪化を理由に社員を解雇する経営者、すなわち「共同体の建設」を最上位に置かない経営者と、雇用確保のために給与の大幅減額を要求しない組合執行部は、基本的に信用しないことにしている。
(平成22年2月25日 記)
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直接現金支払いが会社を救う
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現在、企業の取引先への支払いは銀行振込が一般的だ。しかし当社(九州不動産専門学院グループ)では、必ず集金にきていただいた方に現金で手渡すようにしている。
集金なきところ取引なし
小さな企業とはいえ、月額1200万円以上になる運営費を全て現金で決済するため、それは社員にとっても大変な作業になる。しかし、直接現金支払いは当社の社運をも左右しかねない重大事である。だから、どうしても集金に来ていただけない企業とは最初から取引しないことにしている。
支払い日は相手先の都合にあわせて、10日・20日・末日と定めている。その日が日曜や祝日と重なるようであれば直後の平日に日延べさせてもらう。また、その日が先方の都合で無理な場合は翌月に延期していただく。例えば6月10日に来られない時は翌7月10日に、それも無理な場合は翌々8月10日に、という具合である。
3人体制で支払い業務のシフトを組むワケ
さて、この支払い業務はA・B・Cの3人体制で組んでいる。
まず、Aは、①支払い額を算出する②先方に金額の確認を入れる③集金にお出でいただく日時と場所を指定する④以上のことを直接、支払い担当者に書面でもって報告する―ここまでがAの仕事だ。一度にお出でいただくと混み合うので、1社と1社の間隔は5分間にしておく。
2人目にあたるBは、①支払い場所に待機する②集金にお出でいただいた方の会社と金額を確認する③現金を手渡す④領収書をいただく⑤この時、業者の方に1ヶ月の労をねぎらい、今後1ヶ月の取引きを依頼する⑥また、改めていただきたいことはこの時に伝え、反対に当方の不手際があればお詫びをする―以上がBの仕事だ。世間話に及ぶこともあるが、次がつかえているのでとにかく5分間で済ます。
そして3人目のCは、①業者の方がお出でいただいた都度、本部に内線連絡を入れる②待ち合いの間にお茶を出す③Bの補助作業を行いながらBと業者の方とのやりとりを記録する。
以上が支払い業務のシフトだ。もちろん「社員皆営」の原則ゆえ、優秀な営業担当者もこの体制に組み込むようにしている。これは私たちの業務が実にたくさんの皆様のおかげで成り立っていることを体得させ、その一つ一つにすべてお金が掛かっていることを理解させる上で決定的な経験になる。また、定められた期日までの業務達成がいかに死活的な課題であるかを学習させる格好の授業にもなる。
成果の第1は取引先との人間関係
さて、直接支払いの具体的な成果の第1は、当方が困った時に期間の長短は別として支払いを待ってもらえる人間関係を築けることだ。これが手形決済だと一発で「不渡り」となり、企業にとっては計り知れない信用失墜となる。人間関係の希薄さのなせる悲劇の一種であろう。私たちの会社が創業以来30年間に1度もかかる事態に陥ることがなかったのは、一貫して直接現金支払いだったことと、それゆえの人間関係のおかげだったと自負している。
値段交渉と販促の機会も毎月訪れる
直接支払いの具体的成果の第2は、毎月値段交渉の機会が巡ってくるということだ。先方にとっては毎月販促の機会が訪れることでもある。仕入価格の交渉とはハッキリいえば「社運の交渉」だ。よって、このシフトの中に営業担当者を組み込むことは、当人の外交官としての折衝能力や交渉術を高める上でまたとない機会となる。社運は業績もさることながら、むしろ「仕入価格」にかかっている。年期を経て、風雪に耐えた企業であればあるほど、この鉄則は身に染みて感じるはずだ。そして、この理解を総務担当者にとどめておくか、営業担当者を巻き込む形で全社的な理解にまで発展させるかが、企業盛衰の岐路といえよう。
信頼関係を築くには地道な直接交流しかない
経営とは「お願いし、お願いされる関係」である。しかし、その根底は人と人との信頼関係だ。それではその信頼関係を築き上げる方法にウルトラCなるものがあるかというと、それは直接交流の回数を地道に積み上げることしかないであろう。まさに「急がば回れ」とはこのことだ。100社に毎月、直接現金で支払うと仮定すると、年間1200回も直接交流の機会が訪れることになる。まさに「チリも積もればヤマ」である。
「当方にとっての支払い」と「先方の取っての集金」はメダルの表裏の関係であり、同義である。この行為の絶対的価値とは、経営の帰結であると同時に出発点であるということだ。これを非人格的に、かつ簡単に済ますという思想ほど健全な経営を破壊する誘惑はない、と思うゆえんである。
(平成22年2月27日 記)
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トップ営業では社員は育たない
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私事で恐縮だが、平成12年10月に当社(九州不動産専門学院)は天神地区の新築ビルに住所を移転した。移転先は天神121ビルの最上階である。ここからの眺望は素晴らしく、窓から天神中央公園の緑が見下ろせる。創業以来30年間、厳しい時代を生き抜いてここまで到達したという感慨が湧いてくる。そこで私は、社長指定席の最も眺めのいい窓際を応接室兼談話室とした。顧客にも社員にもこの眺めを共有してほしかったからだ。
現状維持か上昇志向か
移転の理由は以前の事務所が手狭になったためだが、会社の業績が特に上向いているというわけではない。仮に現ビルの家賃が月300万円としよう。コストダウンが叫ばれる昨今、なぜと思われる人もいるかもしれない。
当社は不動産・法律・建築関係の資格取得を目指す社会人の人々が集う専門学校である。夢を実現する意欲を奮い立たせることも大切な仕事なのだ。陰気で古びた教室と、天神のビル街を望む真新しい教室と、どちらが夢を描ける環境であるか。私にとって十年前の移転は一つの賭けだった。経営者が現状維持だけを望むなら、社員の営業姿勢もおのずと消極的になる。「現状維持か上昇志向か」という選択を迫られた場合、経営者は困難な道を選ばなければならない場合もあるということだ。
共通認識の徹底こそ経営者の最大の仕事
私は「職場づくり」とは「人づくり」であり、効率などより社員の一体感が重要だと考えている。そのためには社員の経営方針に対する共通認識が不可欠であるが、抽象的な一遍の社訓や就業規則などで意志統一が図れるはずもない。そこで私は数十ページにも及ぶマニュアルを自ら作成して、極めて具体的な指針を与えるようにしている。さらにそれを社員に通読させ、定期的に試験を施して暗記させるようにしている。当社が「社員皆営」を原則としているのも、この精神的な一体感を重んじるためだ。どんな零細企業でもセクト主義が横行すれば社員の共通認識は決して得られない。
経営者の仕事はこうした「共通認識の徹底」と「人づくり」に尽きるといってもいい。あとは会社が危機に直面した時の判断だけである。これを怠ると、中小企業の経営者は倒産するまで自ら営業に奔走することになる。実は当社でも私が売上の大半を担っている状態が続いたが、売上の激減を覚悟して「営業拒否」を宣言した。すると不安になったのか社員の実力も自然と育ってきた。トップが営業している間、社員は決して育たないものだし、営業に従事していれば社員教育を怠りがちになるのも当然といえよう。
社員教育は毎日の業務の中でもできる
零細企業では社員教育に時間を割く余裕がないと愚痴をこぼすが、私は通常の業務の中に「教育的契機」をふんだんに盛り込むようにしている。
たとえばかつての事務所移転に際して、私は30人ほどの社員の中から「新校舎建設実行委員会」を組織させた。さらに社員全員に新オフィスのレイアウトを考えさせて図面として提出させた。いわば社内コンペである。こうした経験を通して、社員は自ら具体的な職場の在り方や人間関係を模索し、会社への愛着心を育てるのである。
毎日の社内清掃もそれぞれのスペースで担当を決め、報告・点検を徹底させる。問題があった場合は抽象的な愚痴ではなく具体的な指示・注意をする。これを通して社員は作業における意志伝達の方法を学びとるのである。また営業に対しても、当社では毎朝「突撃」と呼ばれる電話営業を設立当時から実践している。総務もベテラン営業マンも例外ではない。効率の面からいえば、これ程無駄な作業はないだろう。だが、これも積極的な営業姿勢を保つための社員教育の一環なのである。
社員教育を徹底しているため、極端に言えば当社では人材の良し悪しは問う必要がない。その意味で私は「経営者が教育を事業として選んだ」というより「教育者が経営を覚えた」といってもいいだろう。大企業では社員研修を外注する場合があるが、これは自分の子供を里子に出すようなものだ。自分の社員を教育できないようでは経営者(=親)失格といわざるをえない。
「規模分類」よりも「文化分類」を旨とせよ
私は企業を「家」という文化で捉えている。経営方針や社員教育を考える時に、「大企業」「中小企業」などという経済産業省の「規模分類」で優劣を判断するのは誤りである。大企業と中小企業の相違点は優劣や規模ではなく文化そのものである。これは身長の低い人間を「小人」、身長の高い人間を「大人」と区別するほど愚かしいことだ。個々の人間の性質が異なるように、大企業と中小零細企業の相違点は精神文化そのものである。つまり「規模分類」より「文化分類」に即した経営方針を選択すべきなのだ。
効率性重視の大企業的経営方針は昨今の不景気で数々の悲劇を生んでいる。これに対して、私は30年間一貫して「家」の思想を経営の根幹に据えてきた。もちろん、社員にはそれぞれの家庭を大切にしてほしいと願っている。年功序列や終身雇用制という日本的制度が崩壊しても、精神風土は易々と変化するものではない。私の経営目的とは、この「家」という精神文化が企業社会においても優れていることを実証するためであるともいえよう。
(平成22年2月27日 記)
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社員の長期入院は会社と人づくりの好機
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会社経営の〈人財〉である社員の長期入院ほど頭の痛い問題はない。まして、余剰人員を抱える余裕のない中小企業にとって、それは屋台骨を揺るがす一大事である。
長期入院というハプニングは人づくりの〈最適の機会〉
心ない会社は長期入院=退社というカードをちらつかせるところもあるし、仮に入院者が「快復して職場に復帰しても、仕事の引継ぎや配分がうまくいかず、居づらくなって、自発的に会社を去らねばならないケースもある。われわれ中小企業の経営者はこのような悲劇の連鎖を断ち切らなければならない。
私は社員の長期入院というハプニングこそ、社員と会社の結束を固め、人づくりの〈最適の機会〉と位置づけた。総勢30人足らずの当学院でも、これまで6人の社員が長期入院した。列挙すると、平成4年3月に女性役員〈当時42歳〉が子宮ガンで4ヶ月入院/平成5年3月に男性役員〈当時56歳〉が心筋梗塞で5ヶ月入院/平成7年5月に男性役員〈当時47歳〉が転落事故で2ヶ月入院/平成8年3月に女性職員〈当時21歳〉が白血病で18ヶ月入院/平成10年6月に女性職員〈当時24歳〉が交通事故で2ヶ月入院/平成15年3月に男性職員〈当時48歳〉が閉塞性動脈硬化症で1ヶ月入院(18年1月に1ヶ月再入院)――である。
いずれも退院後、職場復帰し元気に働いている。特に、白血病で入院した女性職員は、「会社の人たちの温かい心に支えられ、このままでは死ねない」と、現代医学でも不治の病といわれる白血病に打ち勝った。これは会社と〈人材〉を預る経営者として、まさに誉だ。
現有戦力で仕事を分担し復帰を待つのがベスト
さて、長期入院の仕事上の問題点はいくつかある。なかでも大きなポイントは、①人材確保②前任者の仕事の引継ぎ③入院者とのコミュニケーションと復帰後の体制――が挙げられるだろう。
①に関しては、中小企業にとってまさに頭の痛い問題だ。人材を急募して即戦力で気心の知れる、まさに“人財”を確保するのは、余力のない中小企業では不可能に近い。私にあるのは、社員と共に家族的な共同体(企業)をつくり上げるという〈信念〉だけだ。これに共鳴、共感してくれる“人財”は一朝一夕には確保できないし、育て上げられない。
次に②の前任者の仕事の引継ぎ問題である。業務は片時も途切れさせるわけにはいかないが、たとえ在籍している別の者に業務を引き続がせるにしても、いきなり2人分の仕事を1人に押し付けるのは理不尽だし不可能だ。当学院の社員は夫々がプロ意識に燃えて密度の濃い仕事を責任を持ってしており、一人が引き継げる仕事量は自ずと限界がある。
①と②を同時に解決する方法は、新たに人員を増やさないで現有戦力で仕事を分担する以外にはない。前任者の業務を細分化して分析し、個々の能力と現在の仕事量を勘案して引き継がせるのである。
しかし、これは言う易し、行うは難しである。往々にして起こる事は、引継ぎ者に処理能力以上の仕事を“押し付け”てしまうことだ。またそれぞれに引き継がせる仕事量の平準化も至難の技だ。それがうまく機能しなければ、やがて不公平感が鬱積し、共同体〈会社〉は内部から崩壊していくことにもなりかねない。
「お見舞い定期便」が円滑な職場復帰の鍵
経営者は社員一人ひとりの資質、能力を把握し、つねに目を配らなければならない。社員の結束、人づくりをするのも経営者の重要な役割の一つである。③の入院者とのコミュニケーションと復帰後の体制の確立は、まさにその集大成といえる。①と②は何とか乗り切っても、③はよほど強固な共同体でなければ難しいだろう。
当学院の場合、当初は社員全員で入院の事態に対処するが、入院が長期にわたると判断した段階から入院者へ「お見舞い定期便」を走らせる。これは、入院者へ連絡を取る担当者を決め、週に1回、特定の曜日、時間に見舞いと連絡業務を兼ねるというものだ。
通常、当学院では毎週木曜日の午後を「お見舞い定期便」に割り当てている。入院者は、毎週会社からのこの「定期便」を「心待ち」にできることになる。定期便の担当者は、毎週月曜日に行う全体朝礼の訓辞の録音テープ(CD)や、上司や部下や同僚の、そして顧客の気持ちを伝えに行く。そして入院者の気持ちをまた会社に持ち帰ってくる。毎週、このやりとりの経過と情報を専用ノートに書いて社内回覧することで気持ちを共有する。しかも担当者は入院者の家族にも定期的に連絡をとる。また病気の回復状況次第では、病室に仕事を持ち込んでもいく。
私が企業で目指すものは家族でもある共同体
これらはともすれば単なる定期業務のように見えがちだが、これこそが仲間やお客様は入院者の回復を心待ちにしているという印象づけになり、不治の病にも打ち勝ち、また退院後の職場復帰の適応力の早期養成にもなると思っている。
退院するときはそれこそ職場上げての歓迎となる。気心と顔が知れた上に、仕事のできる者がありがたいことに「入社」してくるようなものだからだ。企業にとってもこんなに喜ばしいことはない。
もちろん、病み上がりなので、いきなり以前の担当業務に戻す事はしない。徐々に職場環境に慣れさせていく。個々人の差はあるが、だいたい1ヵ月から3ヶ月、長いもので3~5年かけてでも気長に見守る。中には元の体調に戻らず全開の仕事ができなくなるものもいるが、私は全く仕事に関しては問題にしていない。なぜなら、先述したように、私の作ろうとしているのは単なる社員ではない家族であり、共同体だからだ。それに応じた業務を創り出し、当の本人に担当してもらうことにしていくのが私の仕事だからだ。
社員の長期入院は中小企業にとって大きなピンチだが、それをチャンスに転じられるかどうか、経営者の手腕と共同体としての会社のあり方が試されるといえるだろう。
(平成22年3月3日 記)
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入社前研修の決定的重要性
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中小零細企業の人材とは、言い換えれば〈覚醒した戦力〉にほかならない。覚醒した戦力をどれだけ確保できるかは、中小企業にとっては死活問題であり、入社前研修を軽んじる会社はその企業の永続性を獲得することが極めて困難になるであろう。
内定者をふるいにかける入社前の「三つの課題」
ここでいう“覚醒”とは、会社の基本的な経営方針あるいは経営者の考えを心底理解して仕事の本質を見極め、社会的役割を見出し遂行できる状態をいう。この人材を確保するための、当学院における「入社前研修」について述べたい。
研修の対象になるのは、まだ学生である新卒の内定者に限ってであるが、私は4月入社前に次の三つのことを学生に課している。これは、内定者を更に選別する“ふるい”のようなものだ。
「卒業式・祝賀会・謝恩会」の裏方として参加する
まず一つ目は、「卒業式・祝賀会・謝恩会」に主催者の一員として参加することである。会を成功させるための業務の一端を担うことで、当学院のお客様である合格者を一緒にお祝いするわけだ。狙いは二つある。一つは、自己犠牲、奉仕の精神を社会に巣立つ前に再認識させることである。屋上屋を重ねるようであるが、案外、こんな基本的なことが身についていない。もう一つの狙いは、当学院の仕事の性質を理解させることだ。
当学院の仕事、商品は目に見えない付加価値が大きなウエートを占めるので、仕事の全体像の説明は非常に難しい。当学院の仕事、商品は、受講生であるお客様との信頼関係なしには成り立たないが、このことを当学院で学び、ひとつの大成を遂げ、感謝の念をいだく卒業生の姿を見せることで、内定者に当学院の目的を認識してもらいたいのである。
「建国記念式典」に裏方として参加する
二つ目は、毎年2月に日本会議福岡が行っている「建国記念式典」の受付業務をしてもらう。これは当学院の定例行事であり、毎年1,000人以上の志を持った人たちが集う行事だ。今年は福岡国際会議場で厳かに行われ、我が国の建国を称え祝った。来賓には、公務を押して参加していただいた有力議員、各業界・団体の有力者も多数参加される。この志をもった方々と接することで、内定者は“国家や国史”とのかかわりを身をもって知ることになる。
あえて建国記念式典を選んだのは、国があって成り立つ社会の中で働く日本国民としての自覚を明確にできるからである。初心に帰るために、皆が決起する公的行事でもあり、1年に一度、改めて我が国の建国の日を心に記す式典だ。そこで初心になるということは、道を誤らないことにつながると信じている。かつて誓った志を儀式化、行事化することによって、公的に大義名分が立つのだ。
二つの課題で仕事の内容と社会的な役割を知る
社会で仕事を成功させるには、なにより一体感が必要である。顧客や組織の仲間としての一体感、そして日本という国家に属し、はたまた先人の歴史との一体感を持ってもらう。
当学院は、天神のオフィスビルの最上階にあるが、内定者たちは、見晴らしのよいオフィスで格好良くデスクワークする姿を将来の自分に重ねているはずだ。しかし現実はそう甘くない。仕事には自己犠牲、奉仕の精神、一体感といったものが必要不可欠である。今の若い世代は、このような考えを苦痛に思うであろうが、こちらとしても格好良さだけで入社されては困る。お互いに不幸にならないためにも、入社前研修は重要だ。
だいたい、一つ目の「卒業式・祝賀会・謝恩会」と、二つ目の「建国記念式典」に主催者の一員として関われば、賢い内定者ならば当学院の業務は、お客様に喜んでいただくサービス業であり、学院の社会的な役割は、国家や民族と一体不可分であるということは自ずと理解できるはずである。
「教育勅語」を暗記し忠孝を心に染み込ませる
最後の三つ目は、在学中に〈教育勅語〉を暗記させることである。昭和20年まではわが国の学校教育は、社会に出る前に国民教育や公民教育をしてくれていた。少なくとも道徳的厳しさはあった。今のやれ自由放任だの、人権だのと学生を過保護にする学校教育よりは素晴らしいものがあった。社会の厳しい現実をオブラートで包み込んでしまっている今の制度だと、実際の戦場(ビジネス社会)では役に立たず、会社が再教育しなければならない。
〈教育勅語〉は、忠孝の教えを端的に言い表しており、暗記させることにより、再教育の効果がある。当学院の仕事、商品は説得の結果、納得の上で学費を前納していただかなければならず、お客様と当学院、ひいては担当者との信頼関係が決定打である。だから売り手である担当者が、心を偽り隠していては信頼関係は生まれてこない。心底からお客様の資格取得を願い、自己犠牲をいとわず、奉仕の精神で最後まで責任がとれる人でなければ当学院の仕事は勤まらない。まさに〈教育勅語〉の精神を体現できる“人財”でなければならないのだ。
かくして、「卒業式・祝賀会・謝恩会」、「建国記念式典」、「教育勅語」という三つの課題を担わせることにより、入社前から〈覚醒した戦力〉として第一線で活躍できる“人財”が確保できるのである。
(平成22年3月3日 記)
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顧客を自宅にご招待するワケ
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私たちの学校は“思い立ったが新学期”ということで、それこそ千差万別の入学日がある。100人の生徒さんが通っているとすれば、100通りの入学日がある。それを共通の国家試験日までにある程度の実力をつけて本番に跳び込ませるわけだから、至難の業務といっていいだろう。
至難さを例証する12項目
至難とはこういうことだ。まず第1に勉学の開始日(入学日)が各人各様バラバラであるということ。これは共通の国家試験日までの期間が不揃いであるということだ。第2に入学者それぞれに実力の開きが相当あること。第3に仕事を持って通学される方々が大半のため、勉学を妨げる材料が際限なく発生すること。第4に受験勉強とは人間本来の「易きに流れる」性向に逆行する作業であるため、かつて打ち立てた「初心」との不断の闘いが不可欠であること。第5にいまだ取得せざる資格であるが、所詮、合格してもそれだけでは飯を食ってはいけぬことを通学している人すべてが知っていること。第6に受験するにも資格が必要ということ。第7に昨今は「給付金」問題がたびたび頭をもたげてくること。第8に全員の生徒さんが1回で合格しようとしていること。第9に受講料の負担が本人にのしかかっているため支払い日毎に学業継続か支払い停止かの二者択一を迫られるということ。
列記すれば枚挙に暇がないほどであるが、いわばこれらの問題を全て解決して合格まで導いていかなければならないところに社会人学校の至難さがある。おまけに生徒さんを合格まで指導する前に、従業員をその業務(使命)の付託に耐えられる程度の水準にもっていかなければならないことが第10の至難さに挙げられる。第11はこういう業務を、不断に尽きることのない生徒募集業務の無限連鎖の渦中で遂行しなければならないということ。そしてとどめはこういう困難ではあるが崇高な課題を誇りと生き甲斐をもってやってくれる人材の募集である。
社会人学校の経営は日々、自己矛盾との格闘
合格させることが宿命の仕事、しかも一発でパスさせることをもってしか、ブランドへの階段を上がれない仕事であるということは、煎じ詰めていけば次のようなことである。それは生徒さんをして学校そのものを必要としなくなる状態に1日も早くもっていくことに他ならない。自己矛盾のようであるが、毎日やっている仕事とは、毎日自らを必要としなくなる人を作っていくことでもあるのだ! しかも、このことによってしかブランドになれないという宿命を生まれながらにして背負っているのが、社会人学校の経営といえる。制度入学の恩恵に浴するわけでもなく100%本人の自由意思による入学だけで成立させ、かつまた前述の様々な至難さと日々格闘し続けながらも自らを否定する人を作りつづけなければならない宿命とも共存せざるを得ない血みどろ、汗みどろのバトルが、社会人学校の経営・運営といえる。
ハッスルと感動で生まれたOB,OGの「九栄会」
それだけに、たとえ受講期間に長短はあれども私たちの勧めに応じて入学して頂けるとあれば、感慨もひとしおだ。思わず知らずのうちにハッスルしてしまうのである。
今を遡ること25年前の昭和60年の年末12月にその年度に合格された皆様にご出席頂き祝賀パーティーを開催したのもその「ハッスル」の一例だ。すると、その「お返し」として、会場で「このまま別れるのは何か心残りだ。同窓会のようなものを作ろうじゃないか」「合格させてもらった上に、こんなお祝いまでしてもらったのは初めてだ」等々の発言がこだまして出来上がったのが、現在の「九栄会」である。すなわち私たちも「ハッスル」し、生徒さんも「感激した」という次第である。双方共に喜んだのだ。
以後、今日まで私たちの学校はそれこそ九栄会と二人三脚で歩んできたわけだが、今日ではその九栄会も相当の年間行事をこなすまでになってきている。そのご苦労に報いるために私は例年12月に役員さんだけでも拙宅にご招待して慰労会を開催している。これは私が学校を、職員を、そして講師を代表して顧客を「おもてなし」するということだ。しかし、顧客一般ではつかみ所がない。よって、その中の「合格者」に絞り込み、次に「九栄会加入者」に絞り込んだ。さらにその中の「役員さん」を絞り込み、ご招待することをもって、顧客一般(生徒さん全員)をご招待するという思想を貫徹した。
「今日の生存」は顧客あってのこと
私たちのお手伝いする「資格試験の合格」とは、「一生もの」のライセンスの取得である。人によって感じ方は色々あるだろうが、「一生もの」としては、意外と安い買物ではないだろうか。世間では電気代のように月々でいえばたいしたものでないものもあるが、「一生もの」と考えれば、莫大なコストがかかっている。1年12月として50年間で600ヶ月、よって月々の費用に600を乗じたのが「一生もの」としての価額といえよう。水道代、ガス代、通勤定期代などそれぞれ「一生もの」ととらえれば目の玉が飛び出る金額だ。その最たるものが家賃であろう。
しかし、自社商品を購入して頂いた、もしくは購入し続けて頂く行為に対する謝意の表明として顧客を自宅にご招待する経営者は皆無に等しい。「今日の生存」は顧客あってのことであると心底思っているのであれば、それくらいを目標にして社業に励んで頂きたいと思う由縁はここにある。一般的に標榜されている「顧客第一主義」の真価がここでも問われることになる。地場の中小企業の経営者よ、奮起せよ! である。
(平成22年2月26日 記)
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社員皆営の風土こそ企業防衛の要
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経営において私が基本にするのは「社員皆営」という考え方である。それは「国民皆兵」を文字った言い方であるが、当社では社員全員がイコール営業社員であるということを指している。このことは、社員1人ひとりにとっては厳しい考え方かもしれない。しかし、この経営思想こそが同業他社が経営危機に瀕している昨今の状況の中で、当学院が不景気を乗り越えることができている決定的なキーポイントのひとつであると自負している。
営業は組織区分のひとつか?
通常、企業において営業は、総務や経理などと同等のセクションとして扱われている。確かに営業に関することは、営業というセクションで対応すれば、社内業務の役割分担が図れ、運営の効率化につながる。しかし、全体業務のかくなる分担区分方式は、どちらかといえば官公庁スタイルの臭いがしてならない。そもそも官公庁には、①収入が主に国民の税金で成り立っているうえに、②競合が存在しないという二つの前提がある。よって「営業」という概念は存在しない。
一方、民間企業の場合は、営業による収益が存立の土台になっている。そして、このことは「上場」していようといまいと関係ない。いわば普遍的な真理なのだ。つまり販売を含む営業行為によって資金を集めなければ会社は1日たりとも回らない。
証券市場によって[返済義務の発生しない]他人資本を集めることの出来ない中小零細企業にとって「営業」とは、丁度人間が呼吸をするのと同等以上に必要不可欠な行為なのだ。
文明の違いとしての民間と官公庁
よく零細は中小の、中小は大手の、そして大手は官公庁の役割分担思想を見習えといわれるが、私はその考え方に異議を唱えたい。なぜなら本質的に民間企業と官公庁とでは、全く形態が異なるからだ。それは一方(民間)は「契約自由の原則」下における顧客獲得とそのための営業活動に全面的に依存せざるをえないのに対して、他方(官公庁)は「国法」下における国民としての租税負担義務に基礎をおく。又、一方(民間)は絶えざる競合の出現と攻めぎあいの中に身をさらさざるをえないのに対して、他方(官公庁)は独占であり、競合はない。
かくも存立風土の異なるふたつのグループの間にはまさに文明の違いともいえるほどの隔たりがある。
営業活動なくして一切は空語
それゆえ100%民間である当学院では、個人の好き嫌い、適不適に関係なく、会社に身分を保証してもらうものの神聖な義務として社員全員に営業を課している。そして、営業がしっかりと行える社員に対してのみ、営業と平行して、総務、経理、人事といった間接業務をやってもらっている。
もちろん、この「社員皆営」の原則を今日のように履行できる状態を作るにあたっては十分すぎるほどの根回しと年月をかけてきたのはいうまでもない。しかし、世の中にはどうしても「営業」という作業を回避したがる人間もいるものだ。資金の「入」には参加せず、資金の「出」の段階でのみコミットさせてもらいたいというのでは民間企業はつとまらない。創業以来30年になるが、どうしても資金の「入」への参加を回避したがるメンバーは、たとえ他の面で才覚があろうと手放してきた。
しかし、この累々たる決断の系譜があったればこそ、社員1人ひとりが学院存続の目標にむかって一丸となる確固たる結束をもち得たのだと思う。
「負けない企業」を作るには
『教育勅語』の中に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という一節がある。入社早々まっさきに営業をさせるのは「一旦緩急」の時に逃げ出さない人間であるか否かを見極める上で決定的な人事である。そして「踏みとどまる」胆力のある人間にだけ仕事を伝授し、「社員」に仕立て上げて行く。こういう一騎当千の強者(つわもの)だけで組織の中核部隊を編成していく。たとえ、いかに年月がかかろうともこの方法以外に「負けない企業」を作る手立てはない。
(平成22年2月25日 記)
井戸を掘る人を作る
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私たちの日々の業務は「学校仕事」であり、他人様に有償で専門知識を伝授する仕事である。しかも、伝授した内容の品質が様々な試験結果によって不断に問われ続ける。徳育・知育・体育の「三育」からいえば、二番目の「知育」部分だ。それを「授業」という形を通して遂行するのが日常の課業となっている。
私たちの仕事は「知育」の販売
今回は「知育」の販売について、とりわけこれから購入(入学)しようとする人をいかにして確保するかについて展開してみたい。
まず、心すべきことは、世間様からいかに知識の豊富な「専門家」といわれようと、「注文(指名)を受けて」、しかも「対価を支払っていただいて」からでしか「専門職」とはいえないということである。世間様は注文(指名)と支払いという行為でもって「評価」する。並いる競合を尻目に「注文を受ける」ということは、局地的にしろNo.1」として認知されたことに他ならず、それこそなりゆきで指名されたのでも何でもないことをしっかりと自覚すべきである。
そして、「No.1」の認知は畢竟顧客が享受するサービス面にも求められる。すなわち世間様は過去において築き上げてきた信用実績を判断材料に現在の対価で将来のサービスを購入するというわけだ。
継続と能力という二つの担保
しかし、ここで「学校仕事」のやっかいな問題について一言述べてみたい。それは支払いの時点がサービスの享受前であることである。私たち学校の側からいえば事前回収であり、先方(顧客)の側からいえば「前払い」である。
そして「前払い」である限り、相応の担保を求めてくる。それは大別して二つに分けられる。一つは「事業継続の担保」であり、もう一つは「提供能力の担保」である。前者がないと最後まで講義を続行してもらえるかどうかという不安がぬぐいきれず、また、後者がしっかりしていないとそもそも専門知識の習得ができないばかりか、試験合格もおぼつかない。かくなる理由から継続と能力という二つの担保は、「前払い」を認知してもらう上での決定的なファクターといえる。
向上心、向学心を萎縮させない
それでは、この決定的なファクターはいかにして表現されるかの問題に移ろう。一つ目の「継続担保」の要求に対しては「伝統の紹介」を、二つ目の「能力担保」の要求に対しては、合格者や成功者という「証人の紹介」をもってあたることにしている。
そして、これら二つの回答を提示し続けることによってこそ、飛躍行為であった「前払い」が通常行為になっていく。
しかし、もう一つ重要な問題を説明しなくてはならない。それは、これから入学(受講)しようとする人に内在する通学意欲や向上心、向学心が萎縮してしまわぬように常日頃からお声掛けをする作業があることだ。そして、この作業をつきつめていくと先方がもっている意欲や志のよってたつ動機そのものに関与せざるを得なくなる。
「易きに流れる」性(さが)との闘い
つまり、これから学校の門をくぐるであろう人が抱く「それなりの人生設計」に真摯に向き合わなくてはならないことになっていく。大体、向学心や向上心は萎むためにあるといっても過言ではない。それが逆にますます堅固で不抜なものにしていくことのできる人など小数派も少数派であろう。それゆえ、入学や受講を勧奨するとは、人間のもつ性(さが)である「易きに流れる」態度に不断に待ったをかける行為でもあるのだ。
一心に岩をも穿(うが)つ桑の弓
結論に入ろう。伝統と能力、この二つの担保をからだ全体で体現し、人様の「易きに流れる」性(さが)に不断に待ったをかける行為〔そして人様の夢の構築に直接関わる行為〕が私たちの仕事である。
そして何度もいうように、向学心や向上心などというものは、安易さを求めてやまない現代の風潮に、いとも簡単に挫折させられる宿命を背負っている。かくなる理由から私たちの仕事を貫くということは、「易きに流れる」巨大な奔流を市場化している今日の状況の中では容易ならざる姿勢が必要となってくる。
「一心に岩をも穿つ桑の弓」というが、水脈の一歩手前で諦めて、結果「穴を掘ったにすぎない人」ではなく、水脈にたどりつくまで穴を掘り続けることのできる「井戸を掘る人」を作るのが私達の仕事だと思っている。
(平成22年2月26日 記)
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二の矢を継がず
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わが国では『あゝ無情』(レ・ミゼラブル)で知られている19世紀のフランスの文豪ビクトル・ユーゴーほど、若い頃苦労した作家も珍しい。非常に印象的な彼の言葉を紹介しよう。『商いとは相手の懐(ふところ)に命を賭けた戦争である』想像を絶するほどお金に苦労した様がおのずと滲み出ている。
喝しても盗泉の水を飲まず
ユーゴーの言葉は中小零細企業の経営者にとってはそれこそ座右の銘にでもしたい言葉ではないだろうか。私もこの地で学校を開校して満30年になるが、お金では相当苦労してきた。そして、その状態は本質的には現在も変わらない。昭和20年8月、わが国は有史以来はじめての敗戦を体験した。それ以来60有余年、わが国民はそれこそ働いて働いて働きずくめの毎日を送りながら、今日のような世界に冠たる経済大国を築いてきた。
北朝鮮の金正日のように麻薬や偽札、はては人さらいにまで手を染めて維持してきた国ではない。また拉致を指摘されると1人につき5万トンの米と交換したり、あるいはかくなる一連の悪事に抗議して、経済交流を止めるとの相手国の要求に対して、それは即「宣戦布告」と見なすとして200基ものミサイルを配備し、対象国の主要都市を全て射程に入れ、恫喝するというような方法をとることもなく善隣友好政策をとってきた。
それにひきかえ、わが国の都市という都市が一面焼け野原にされた上に、原爆という最終兵器まで動員され完膚なきまでに破壊されたにもかかわらず、私たちは戦後の国家建設を「働いて」すすめてきた。すなわち、北朝鮮がしているような犯罪には手を染めずに国を作ってきた。
企業を弱くするセーフティネット
今、企業を取り巻く環境は一変している。それこそ庇護や保護という美名のもとに失敗や敗北を救済する法律や機関が十重二十重にできている。会社更生法や産業再生機構といったものもその一例である。しかし、そういったものがわが国で事業を営んでいる中小零細企業のいかほどを「更正」し、「再生」したというのであろうか。かくなる法律や機関を作っていただいた国会議員の皆さんには誠に申し訳ないが、大局的には零パーセントといっていいのではないだろうか。それは規模分類でいえば大手だけを射程に入れた制度にすぎないからである。
個人の世界では「生活保護」として確立しているこの方法だが、法人の世界では不思議と力のある〔あった〕大手のみが対象となる。しかし、中小零細を歯牙にかけないこの制度は逆に私たちの足腰を強くする恰好の環境を作っている。個人も含む小さな企業とは「顧客以外には誰からも、そしてどこからも支援のない企業」をいう。制度的支援もなければ金銭的・人材的支援もない。詮じ詰めるところ、「構成員」によって「顧客」を開拓し、「もてる商品」を「販売」しなければ1ミリの前進ものぞめないのがこの世界の実態なのだ。
退路を断つ
人は「二の矢」をあてこむと弱くなる。自力更生をトコトンまで追求することでしか自己実現の道がないとしたら、中小零細とはまさにそのものズバリの世界といえる。
生活保護を受給しながらも、その甘美な誘惑に負けて自助自立への道を忘却した例は余りにも多い。これは商いの世界においても然りである。様々な救済措置や奨励金・給付金制度を血まなこになって捜し求めている企業に明日はない。それだけの情熱はむしろ商品開発や人材教育や販路拡大といった条件整備にふりむけられるべきであり、かけがえのない顧客への無限の奉仕活動に注がれるべきであろう。
以上のような意味からいって、セーフティネットが余り完備していない環境の方が、私たちにとっては活動しやすい。「二の矢」の甘いささやきへの退路をキッパリ断ってこそはじめて自立への第一歩が開始されるのではないだろうか。
(平成22年2月26日 記)
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軍歌で職場を清掃する
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企業によっては職場の清掃を自分たちで行わないところもあると聞くが、わが社は創業以来、全員で清掃することにしているので以下その要領を展開してみよう。
行進曲「軍艦」
毎週月曜日に普段よりは若干早めの時刻から全体朝礼を実行しているが、まずは国旗敬礼から開始する。そして建学の精神の唱和に移っていくが、毎月第一月曜日は神棚への参拝から国旗敬礼、教育勅語と軍人勅諭の唱和を次第の先頭にもってきている。それから順次進行していくが、今回はその中の「全体清掃」について述べてみたい。
まず、全体朝礼の主宰者である役席者が○時○分より○時○分までという具合に号令をかけ、それに従って例外なく全員で取り組むことにしている。その時、女子の担当が職場の隅々まで設置されたスピーカーから軍歌を流す。主要な曲目を列記すれば以下のようになる。
1. 行進曲「軍艦」 瀬戸口藤吉 作曲 2分51秒
2. 敷島艦行進曲 瀬戸口藤吉 作曲 2分48秒
3. 君が代行進曲 吉本光蔵 作曲 2分38秒
4. 立派な兵隊 大沼哲 作曲 2分48秒
5. 連合艦隊行進曲 山田耕作 作曲 3分02秒
6. 愛国行進曲 瀬戸口藤吉 作曲 3分22秒
7. 太平洋行進曲 斉藤丑松 作曲 3分14秒
元寇
月曜以外の日は「元寇」(2分28秒)や「台湾軍の歌」(2分28秒)、「北支派遣軍の歌」(2分04秒)等を「リピート」で流すようにしている。表題の歌はかの有名な永井建子の作詞・作曲によるもので、歌詞は以下の通りである。
1番 四百余州をこぞる 十万余騎の敵
国難ここに見る 弘安四年夏の頃
なんぞ恐れんわれに 鎌倉男児あり
正義武断の名 一喝して世に示す
2番 多多良浜辺の戎夷 そはなに蒙古勢
暴慢無礼者 ともに天をいただかず
いでや進みて忠義に 鍛えし我がかいな
ここぞ国のため 日本刀を試し見ん
3番 こころ筑紫の海に 波おし分けてゆく
ますら猛夫の身 仇を討ちかえらずば
死して護国の鬼と 誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし
4番 天は怒りて海は 逆巻く大波に
国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
底の藻屑と消えて 残るはただ三人
いつしか雲はれて 玄海灘月きよし
リズム感と勇壮感
通常の有線放送のチャンネルには、理由は定かでないが軍歌は組み込まれていない。よって契約の時に軍歌のCDとそれを入れるプレーヤーとアンプを無償で提供してもらった。良心的な有線放送の会社だ。お陰で①有線と②CDと③マイクの3チャンネルに分けて使っている。そして全体清掃の時は②CDで対応している。南北に50mはあるであろうスペースを20名足らずで清掃するわけだが、こういう場合、軍歌はもってこいのBGMである。
月のはじめ、週のはじめ、そして一日のはじめに皆で心を一つにして職場を磨き上げる。こうしてお客様を迎える準備をするわけだが、こういう作業を通じて私達は同時に己自身の心をも磨き上げていることに気付くべきであろう。
反対に清掃の外注化は、職場は綺麗になるだろうが、その構成員の心までは磨けない。大切なことは清潔で整理整頓された職場ではなく、お客様のために絶えずそういう状態を作り上げ、維持しようとする心のあり方の日々の積み重ねなのだ。その心のあり方が綺麗な職場(形)という結果を出すことになるし、その形が又、私たちの心のあり方に反映し、内心世界までもきちんと片付けてくれることになる。
しかも、これらの作業を足並みを揃えて1分のおくれもなくキビキビとこなしていかなくてはならない。文字通り全体行動であるし、強烈な前向きの姿勢のみがこの作業の適確さと時間内完遂を保証する。2拍子のリズムで突貫していく勇壮な軍歌は正にこの様な全体行動のためにも作られているのである。
二百四十六万の御英霊の御霊のために
明治維新以来、先の大東亜戦争の終結に至るまで、それこそおびただしい数の軍歌や戦時歌謡が作られてきた。私利私欲のない崇高なまでに健気な生と死によって私たちの国は守られてきた。その結果、こうして私のごとき者ですら太平の世で生を享受できている。かって一億の民が命を賭けて戦さにのぞむ時口ずさんできた、これらの曲や歌に私たちはもっと愛情をもって接するべきではないだろうか。
私はかくなる理由により全体清掃の時にはかならず軍歌をBGMで流すようにしている。
(平成22年2月26日 記)
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人事の要諦は素材にあり
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小規模の企業を経営していると「小さいがゆえの問題」にそれこそこれでもかこれでもかとさいなまれる。よくぞこれだけ悩みの種があるものかと驚きを通りこして感嘆すら覚える。今回はこれらの問題の中でも入社希望者の確保と採用にあたっての判断基準について展開してみよう。
入社の無限連鎖を作る
企業活動とは人事面からみると就職(就労)によって退職を補っていく無限連鎖の過程ともいえる。新人の流入局面で中断が生ずると、構成員の平均年齢の老齢化が徐々に進行し、この点での打開がおくれるとそのスピードは一気に加速する。長年にわたる新生児の激減により、わが国・日本が全体としてかくなる局面に突入している昨今の状況下にあって、個別企業だけが例外を呈することは土台無理な話とはいえ、やはり社業の興隆を図らんと持論を展開してみよう。
花嫁を迎える心境
企業が新人を採用するということは「わが国風」にいえば、丁度花嫁を迎える心境に近い。というのは企業という「家」に嫁いでもらわないといけないからだ。しかも、前提としての交際期間がないため「お見合い結婚」のようなものである。大手と違って中小零細は構成員数が少ないため、「水に合わない」人間に入られたらそれこそ大変なことになる。経験からいえることだが、そういう人間は例外なく早期退職(3年未満の退職)している。
しかし、問題はそれだけにとどまらず、相当の爪跡を残して去っていくことにある。ひっかき回された方はたまったものではない。その修復に3年から5年かかる場合すらあるのだ。
迎えてくれる家のすべてを受け入れる度量を求める
他人の家に嫁ぐということであれば、まずは己自身を徹底して空しくする謙虚さを求めることにしている。新卒であれ、中途であれ、この点での妥協は企業にとっての死だ。長く務めてもらっている歴戦の家臣団に対して恩返しできることはせいぜいこの点ぐらいしかない。忠勤と人徳に対しては地位をもって、実力と功績に対しては恩賞(報酬)をもって待遇することが人事の鉄則ゆえ、その両者ともが全く未知数の新人に対してはとにかく「今までの自分は捨てろ」と要求する。それはすべてを捨てることのできる人でしか、すべてを獲得することができないからであり、中小零細は「すべてを獲得することのできる人」しか必要ないからなのである。
共同社会(=家族)の一員にさせる
譬をかえてみれば、新人社員は家族における新生児みたいなものである。何の役にも立たないばかりか、たえず周囲の力と保護を必要とする。それでいてあたりかまわず手にするものを口に入れる様は、何でも一人前にやろうとする無鉄砲な懸命さに似ている。 失敗は先輩や会社のせい、成功は自分の力と思う誤った自信も、子供の成長過程そのままだ。しかし、そうこうしてでも辛抱強くも暖かい心で抱え込んでいかなければ子供は死んでしまうし、いわんや家族の一員にすることなど到底できることではない。
又、家(=企業)を単位とする族(=仲間)の構成員として認知していくためにはお互いに守り、守らせる掟の存在も判らせる必要がある。新人の教育に峻厳さという要素も不可欠な由縁である。
鉄(良い素材)は熱いうちに打て
経営者である私の役どころといえばまずは自らの事業体を小なりといえども入社したくなる会社に作り変えることである。次になすべきことは、それを広く世に告知し、入社したい人(応募者)の流れを作ることだ。第三になすべきことは作られた応募者の奔流の中からわが社(家族)の一員とするにふさわしい素材を見極め内定することである。そして、見極め内定した相手が、本物か否か確認するために、「お見合い結婚」ゆえに設けようにもできなかった「交際期間」を人為的、計画的に作り出すことが第四の作業といえる。しかるのちにわが社にふさわしい立派な素材だと確認できれば、はじめて試採用し、就労させることとする。いわゆる第五の作業である。
中小零細にとっての新人の採用とは単なる作業員や人足の補充ではない。それはかけがえのない家族の一員を増やすことにほかならず、24時間一緒に暮らすことになるかもしれない末子や末娘としての認知行為そのものともいえる。私たち中小零細にとって新人の採用とは①素材の「選定」(仲間を選ぶこと)であり、②選定された素材の「加工」(仲間に加えること)であり、③加工された素材の「商品化」(仲間にすること)そのものである。くどいほどで申し訳ないが、中小零細の経営者は大手以上の真剣さと情熱で素材発掘に取り組まないと企業の明日はないと心すべきであろう。
(平成22年2月26日 記)
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期待される応募者像
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「やる気のある人」、そしてそれを余すことなく「表現していける人」、わたしはこういう人を採用する。
「やる気のある人」を第一に採用する
「やる気」は民間企業、とりわけ中小企業にとっては、何を置いても第一条件である。そもそも企業とは、租税収入による予算措置をあてこまないで、無から有へと飛躍してできた事業体である。それゆえ企業にとっての1日とは「創業魂」や「企業家精神」と「怠惰という没落や崩壊への甘美な囁き」とのバトル(死闘)の繰り返しといってもいい。
1週とは7ラウンドのことであり、1年とは365ラウンド続く実戦に他ならない。
いわばこの真っ只中にわが身を置くということは、まさに「やる気」を置くということなのだ。「人・物・金」を企業の三大要素というが、それは必要条件のことをいっているのであって、ポイントはあくまで最大の構成要素である「人」の「やる気」である。
まさに「やる気」があるから「立ち上げた」のであり、「やる気」があるから「応募」したのである。つまり、「やる気」や「志」が漲っていればこその「人・物・金」なのだ。私が「やる気」や「志」をもって中小企業の十分条件、成功条件と考えるゆえんである。
「やる気のない人」は間違っても採用しない
ここから言えることだが、中小企業は絶対に「やる気のない人」を採用してはならない。数式で言えば、それは「△=マイナス」をかかえ込むことに外ならず、まかりまちがえば「倒産」に直結する。だから、どんなに困っても、極端な話、自分1人だけになることが十分予想されても、絶対に「やる気のない人」を採用してはいけない。所詮1人から始めたわけだから、時々「創業時の経験」を想起し、初心に帰るのもいい。
私は人を採用する際、次の10項目を特に注意してみている。
①学歴や学力があっても「やる気がない」
②若くて健康だが「やる気がない」
③指導力や実力がありそうだが「やる気がない」
④経験豊富だが「やる気がない」
⑤顔が広いが「やる気がない」
⑥育ちが良さそうだが「やる気がない」
⑦容姿端麗だが「やる気がない」
⑧縁故であっても「やる気がない」
⑨協調性があるが「やる気がない」
⑩礼儀正しいが「やる気がない」etc
『如何に隊伍は整いて 節制乱れずありとても 忠節存ぜぬ軍隊は 烏合の勢に異ならず いかでか敵にあたるべき』
これは「軍人勅諭」という曲の一節であるが、ここでいう「忠節」を「やる気」に置き換えてみればもっと分かりやすい。
決して1人で面接してはいけない
更に重要なことは決して1人で面接をしてはいけない、ということだ。 人の判断はとかく主観に流れやすいし、流されやすい。現場で直接使っていくことになる上司予定者を同席させるのはいわずもがな、男女両性の目で見ることが大切である。そして、むしろ経営者の判断より、信頼している「人事担当者=上司予定者」の意見を重視したほうが無難である。
オーナーや経営トップの前では「借りてきた猫」のようであっても、現場に配属された途端に豹変した例をあまりに多く知っているからだ。その点、現場の担当ははじめから豹を想定して相手を見るからシビアである。もうひとつ大切なことは、こういう陣型で面接することで現場のメンバーに、応募者の「面接時における初心に満ちたういういしい姿」を印象付けることが可能になることだ。
それは採用される者の採用後の豹変を一定期間防止する効果がある。厳しい条件のヤリトリの一部始終に参加させることで、配属後に時々発生する採用条件等をめぐっての不毛の齟齬を予めシャットアウトできるわけだ。
現場担当者をカヤの外において採用すると、当の本人が現場に配属されたあと、そこの責任者に「ありもしないトップとの約束」をもち出してきたり、「極小の取り決めである社則」を「極大の努力目標」ではなかったのか、とうそぶかれた時、周囲はまったく反論できないものだ。
中小零細企業の年次計画などは脆いもので、この程度の「蟻の一穴」で大幅に狂ったりする。だから「たかが採用」と思わずに「後継者の発掘」や「養子縁組」という重みで対応するのが中小企業の健全な姿勢であろう。
慎重に対応しなければならない人もいる
最後に私が過去の苦い経験にもとづいて今は慎重に対応している人たちについて一言述べてこの稿を締めくくらせていただく。
①条件面にあまりにもこだわる人
②大企業のシステムが「絶対善」と信じて疑わない人
③反日感情の持ち主
④自分の出自や親の職業を堂々といえない人
⑤営業を忌避する人
⑥気品と気迫に乏しい人
⑦父権がないか、ないに等しい家庭に育った人
⑧端麗な容姿を実力と思っている人
⑨履歴書記載に不備欠陥のある人
⑩当方の問いかけに黙秘権を行使する人
⑪余りにもブランクが長いか前職確認のとれない人
⑫組合活動家だった人
⑬公務員感覚の人
⑭倒産企業の経営者だった人
⑮単純作業に耐えられない人
(平成22年3月5日 記)
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失敗談(新卒篇)
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企業活動を「粗利をたたき出す収益運動」と信じてやまない経営者のひしめく中で、私たちは「共同体建設」を企業の第一義的課題として揚げ、「勝利は最善である」などという甘い認識ときっぱりと訣別し、「勝利は唯一無二である」とのテーゼに全社一丸となっている。なぜならば、こうすること以外に前述した課題の実現はないからだ。
今回、失敗談を発表するが、本音と建前をソツなく使い分けることが「人間的成熟度」と勘違いされる時代、事なかれ主義がわがもの顔に大手を振って闊歩する時代、責任の負担表明なき自己主張の乱舞する時代、こういう時代だからこそ、この負の体験はことのほか価値があるのではないだろうか。
そこで、過去の失敗事例に基づいて、あくまで最大公約数的ではあるが、慎重に事を運んだほうがいい人について紹介してみよう。人とは採用し、使ってみないと分からないのも事実だが、これらはちょっと工夫しさえすれば、選考試験ですべて識別可能だ。よって採用する側は、組織防衛上、是非参考にしていただきたい。また、応募する側は、万が一、当てはまるものがあれば、直ちに自省し、企業の一員になる覚悟を改めて固め直してもらいたい。しかし、まずは良き国民、立派な日本人になることから出発し直すべきだ。さすれば、必ずや「良縁」に巡り合うことであろう。
条件面にあまりにもこだわる人
自分が周囲にしてあげることより、周囲が自分にしてくれる事に、より一層の関心を持つ人で、うちのようなサービス業には向かない。業務の履行・励行より権利の主張・獲得に傾斜した考えの持ち主が多い。「採用してもらってありがたい」というより「不満があるが、入社してやる」と思っている。また、仕事そのものより条件に最大の関心があるので、条件さえ折り合えばサッサと転職してしまう。条件がすべてで、仕事はそれにくっついている付録のようなものだという考え方の持ち主で育て甲斐がない。
大企業のシステムが「絶対善」と信じて疑わない人
大小と善悪や優劣は関係ない。しかし大は善で優、小は悪で劣という固定観念にとらわれている人が意外と多い。また機能的で合理的な大手のやり方に憧憬に近い気持ちを抱いている経営者もいる。大男・大女が善で小男・小女が悪であるなど笑止千万。大手企業にはそれなりの文化・伝統もあるだろうが、中小零細にはもっと素晴らしい文化・伝統がある。こうした関係の中に善悪・優劣の価値基準を持ち込むほど不毛なことはない。いわば、大小の問題は「水」の問題。すなわち「大手文化」を絶対善と信じて疑わない人は「中小の水」に合わせるのに時間と年数がかかりすぎる上に、その間に予想される配属先での文化的軋轢を考えると、スタッフとして隔離したポジションとスペースが確保されない限り、どんなに能力(自称)があっても慎重になるべきだ。中小でいう「公私融合」を大手では「公私混同」と呼ぶらしいがこれも文化の違いだろう。
反日感情の持ち主
後天的な教育によるのであろうが、わが国が嫌いな人に企業が忠誠心を期待しても土台無理な話。階級史観の呪縛から解放されていないこの手の人は大体において企業の経営者とか商店主を「悪人」と決め付けている。また猫の額ほどの土地しか所有していない人に対して敵愾心すら抱いている人もいる。また、自分の上司にだけは絶対従うまいと心中ひそかに決意していることだってある。『獅子心中の虫』とはまさにこういう人たちを指す。このような考えであるか否かを的確に見抜く設問こそ入社試験に組み込まれるべきだ。なお、この範疇(はんちゅう)には国民に「反日・抗日・悔日教育」を施しているお国からの留学生や、その国籍者も含まれる。ある国の国籍を持つ高校生に「お国から私たち日本人を拉致せよ、と命令がきたらどうするか」と尋ねたことがある。彼女は答えられなかった。ただ一言「自分の家族のことを思うと反対できない」と寂しそうにつぶやいたのが印象的だ。あどけない顔をした18歳の娘だったが丁寧に説明してお引き取り願った。応募の自由や権利も大切だが、それよりもっと死活的なのは企業を防衛する自由や権利だ。
自分の出自や親の職業を堂々と言えない人
やくざ者でさえ「手前、生国は・・・」と口上を述べたものだ。堅気の商売に飛び込む人が何で「故郷」を述べられないことがあろうか。盗み・火付け・殺人・麻薬・売春などが「親の仕事」であるならともかく、この世で堂々と言えない職業はない。「国憲を重んじ、国法に遵う業(なりわい)」である限り、堂々としかも目を輝かせて親の職業を言うべきである。人様のお役に立っているなら、何故「職業」を恥じることがあろうか。むしろ、健康な身体を両親から授かりながら、「一向に働こうとしないこと」こそが恥ずべきことなのだ。親の職業を恥じる心がある限り、その人は自らを採用し雇用してくれた会社を誇ることはないであろう。
営業を忌避する人
入金(売上)を達成していく苦労は拒否しながら、出金(給与支給)にはあやかりたいというチャッカリ型で、中小企業にとっては「お荷物」である。全員営業、すなわち「社員皆営」でないと成り立ちようがないのが中小零細である。これがこの世界の文化であり文明であり価値なのだ。こういう文化や価値はたとえどんなに大きくなっても忘れず持ち続けることが肝要である。国家でいえば、それこそどんなに歴史や文化や伝統を誇ろうと、はたまたその政治的円熟や経済的繁栄を謳歌しようと、「国民皆兵」の原則を崩したらいけないようなものだ。一に営業、二に営業、三、四がなくて五に営業、これが中小企業の誇るべき文化と価値である。確固不動のこのテーゼの無条件的承認こそが採用の絶対条件である。
気品と気迫に乏しい人
親の躾や家庭の教育がいかに大切かということだ。「嫁を取るなら親を見ろ」ともいう。親がしっかりしているなら恐らくその子供もしっかりしているだろうと思うのは
多くの人の常識だ。門地・身分・職業・地位・学歴・収入・地域・国籍などに関係なくしっかりと子育てをした親か否かを確認する必要がある。あるいはお天道様のもとで正々堂々とした生き方をしてきたか否かをつかんでおく必要もある。正面にせよ反面にせよ、子どもにとって親の影響ほど大きいものはない。正社員の採用とは「結婚」みたいなものだ。家族よりも長い時間と年数、顔を突き合わせて行くのが社員である。しっかりとした躾がなされていない人を採用して、箸の上げ下ろしまで指導させられるのはご免である。育ちの悪い人、品のない人、気迫の乏しい人を採用するとどうしても職場のグレードダウンを招くし、下手をすると良貨まで駆逐される。国の労働行政に協力するのもいいが、その結果、必然的に発生する「負の果実」に対して彼らは決して救いの手を差し伸べてはくれないということを心しておくことも大切である。
「父権」がないか、ないに等しい家庭に育った人
女手一つでも立派に子育てができる人もいる。逆にふた親揃っていながらてんでダメな場合もある。これは一にも二にも父権があるか否か、あるいはそれを構築していこうとしているか否かによる。父権の確立されていない今日の教育現場を見よ! 成立しない授業が全国でゴマンとあるではないか。
過去の経験からいえることは①自己中心的(わがまま)で、②情緒不安定、そして、③絶対に責任を引き受けようとしないのが、かくなる家庭で育った人の性向といえる。
情緒的・感情的にしか物事を捉えられないのでは企業活動の中での共同作業はやっていけない。理論的な検証とか系統だった思考がおざなりにされ、周囲の様々なベクトルへの手抜かりのない配慮に欠けると、健全な企業活動はまたたく間に齟齬をきたす。「好き」だとか「嫌い」だとかで全てが一刀両断されたのでは周囲はたまったものではない。ゆえに、己自身の感情を100%コントロールできることが企業に身を置く者の不可欠の条件だ。この資質なくして「対人業務の遂行」は不可能である。『相手を制せんと欲さば、まず己を制せよ』である。そしてこの自己抑制の徳は「父権不在の環境」からはなかなか育ちようがない。
端麗な容姿を実力と思っている人
このタイプは私たちのような奉仕活動にはむかない。私たちが配慮し気をくだくのは、あくまでカウンターの外側に位置している顧客である。同僚や上司からチヤホヤされることを期待して入社してもらっては困るのだ。カウンターの内側に、すなわち仲間や同僚の中に「お客様」を抱えたらいけない。私たちは額に汗して一緒に重荷を背負ってくれる人を求めている。なにもキレイな人を求めているのではない。むしろ「心のお化粧」や「精神の身だしなみ」をこそ絶やさない人を求めている。つまり、面接時の印象など最低でいいし、「まごころ」と「ひたむきさ」さえ感じとれればいい。その上に「辛抱強さ」まで加わればいうことはない。
履歴書記載に不備欠陥のある人
事柄を甘く(なめて)考える人で、仮にそうでないとしても能力的に問題がある。履歴書には必要最小限の情報しか記入できない。それさえ満足に記入できないようでは先が思いやられる。企業活動とは弾丸や爆弾こそ飛び交わないが、形をかえた戦争である。決して「ごっこ」ではない。つまり自分という商品を売り込むパンフレットである履歴書さえまともに書けない様では、企業がその人に営業用パンフレットの作成を任せられるわけがない。だから、こういう人は論外として書類選考の段階で排除する。
当方の問いかけに黙秘権を行使する人
採用する側に問いかけたり、問いかけなかったりする自由や権利があると同様に、応募する側にも回答したり、回答しなかったりする自由や権利がある。しかし、私は自分の子どもたちに「面接官に尋ねられたことについては胸を張って堂々と答えなさい。決して嘘をついてはいけない」と教えてきた。これは当校の卒業生に対しても同じである。
現実に職場で席を並べて働く段のことを想起すればもっと判りやすい。問いかける側、採用する側の質問基準より、応募する側の回答基準を優位に置く考え方に与するわけにはいかない。組織内に入れたら、それこそ「職制」が機能しなくなる。企業や官庁を問わず、組織活動から指示・伝達や報告という行為を除いたら、一体何ができるであろうか。それこそ「烏合の勢に異ならず」だ。
(平成22年3月5日 記)
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失敗談(中途篇)
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採用とか不採用とかはメダルの裏表をいっているにすぎないのであって、多少リアリズムめいた言い方をすると「メダルの裏表業務」の核心とは「人の選別・差別」以外の何ものでもないということだ。数多くの応募者の中から「本物の志願兵」を絞り込み、更に「しなやかで強力な素材」を絞り込んでいく。
戦後、65年にもなる「教育勅語不在教育」の真っ只中で丸ごと育った人が国民の9割以上を占めるようになった昨今の世相の中で、この考え方で採用・不採用業務を貫徹していくことは、相当の思想性が要求される。しかし、この競争社会で中小企業が成功して顧客に満足いく商品を提供することができ、かつ、構成員に将来展望を与え、もって国家に貢献することができるとしたら、それは、一にも二にも「勝ち抜く」(あるいは「負けない」)ことが絶対前提だ。そして、その絶対的なる前提を成就・構築できるのが、犬でも猿でもなく人(ひと)しかいないとすれば、「採用・不採用業務」を戦略的勝利のための戦術=水際作戦として位置づけることこそが最重要の課題ではないだろうか。
さて、中小企業ほど「一騎当千」の強者(つわもの)を必要としている分野はない。しかし、そのような強者集団は決して「不適格な素材」の上には成立しないのも冷厳な事実だ。それゆえ、そのような「素材=人材」の採用、企業にそして職務に「忠節を尽くすを本分とする」社員の採用にこそ、中小企業盛衰の鍵がある。
そこで、過去の失敗事例に基づいて、中途採用の場合であるが、慎重に対応すべき人をこれから述べてみよう。よって応募する人で、万が一、該当する項目があれば直ちに自省し、家族共同体の一員になる覚悟を改めて固め直してもらいたい。しかし、まずは良き国民、立派な日本人になることから出発し直してもらいたい。さすれば、必ずや「良縁」に巡り合うことであろう。
余りにもブランクが長い人か前職確認のとれない人
その間、どうやって食っていたのだろうかと不思議な思いを抱かせる人がいる。
いちいち書き込めないほどの流浪の人生をおくってきたか、余りにも転職経験が多いか、あるいは無為徒食の人生だったかのいずれか一つであろう。そうでなければ刑務所にでも入っていたのか、悪事に手を染めていたのかもしれない。とにかく仕事と仕事のブランクが余りにも長期に亘っている場合は、本人が履歴書に修正記入、追加記入でもしない限り要注意だ。
また、余り知られたくない過去をもつ人は、己の業務経歴に「倒産企業」を列記し、脚色を施すことがある。これでは前職確認のウラが取れない。当の本人にとってはウラを取らせないことが狙いだろうが、仮に本当に在職していたとしても疫病神であることに変わりはない。人生、通過してきた会社が全て倒産してしまっているというのは悲しいことには違いないが、どうもこの手の人は「不幸の手紙」を思い出させていけない。他の会社に応募し直してもらいたいものだ。およそ、企業の倒産とは経営者と従業員の合作による「負の事績」である。経営者だけが指弾されることではない。
組合活動家だった人
活動場所が民間にせよ官庁にせよこの手の人は要注意だ。とりわけ専従者だった人はよほどのことでもない限り、思想に惚れ込むことはあっても企業への忠誠を期待することは難しい。
国旗よりも、社旗・校旗よりもむしろ組合旗に対して起立するような教育を施してきた張本人である彼らは、そもそも就職の目的がその職場で働き顧客に奉仕することではなく、「組合結成」であったりすることすらある。私たちのように「国家社会に貢献する」ために年中無休で営業活動に専念している職場と対極にあるのがこの手の人の世界観で、自分たちの要求が通らないと実力行使をしてでもスローガンを貫徹しようとする。
わかりやすくいえばこうだ。生徒さんから預ったお金はしっかり頂いておきながら、講義実行等の役務提供段階で「春闘」とか何とかでストライキ等の実力行使を図るという考えである。社会人の皆さんが汗水流して働いてかちとった給料の一部を私たちは受講料として預っている。その一部が社員の生活資金として支給(給料)されるのだが、それはしっかりと使い果たしながらも、職場放棄等をされ、授業や講義を停止させられたのでは契約も社会的信用もあったものではない。生徒さんの身になって考えれば「泥棒」や「詐欺」と何ら変わることがない。
それゆえ、このような事態に陥らないようにするためには、私はこのような人にはどこかの政党の事務所にでも行ってもらうように説諭している。なぜならば、私たちは業務に取り掛かる姿勢の拠り所を「教育勅語」や「軍人勅諭」に置いている。国家貢献を合い言葉に日日初心、滅私奉公で職務に精励している家族共同体が私たちのグループである。よってすべての人間関係や社会的事象を階級対立や唯物史観でしか把握できない人の入社は御免こうむりたい。私たちは愛国心を土台に「義理と人情」で団結している国民・日本人の組織だからだ。
公務員感覚の人
元公務員の一人として言えることは、長年の月~金、9時~17時で培われた公務員感覚は一朝一夕でとれるものではない。時間優先主義の風土の中で形成された(後天的)体質を民間の成果第一主義・顧客絶対主義の体質に改造するのは容易なことではない。「過程」評価主義から「結果」絶対主義の世界への飛躍ということを理解しないで、単なる転職と安易に考えると大変なことになる。
民間と官庁との決定的差異は①「競合」の有無と②財務基盤の違いといっていいだろう。官庁には競合は存在しない。また民間は売上に給与資金の淵源をもつが、公務員給与は租税による予算措置にその淵源をもつ。
また、民間では「納期厳守」が絶対であるが、官庁は「定時退庁」が支配的だ。民間では己の身柄を定刻までに会社に「納品」し、約束した期限までに顧客に商品を「納品」する。そして、その目的達成のためには当然「定刻退社」を犠牲にする。民間では「納期」が守られなければペナルティが課せられるか、返金になる。事柄の是非はともかく、これが官庁の外の世界の常識であり、この常識が毎日毎日、それもひとつひとつの取引に個別に要求されるのがまぎれもない民間の風土なのだ。
また、中小零細企業では月~金、9時~17時のごとき活動では到底社会から認知されるものではない。「身の程知らず」というものだろう。民間の立場とは、顧客の都合に合わせる立場であり、官庁に合わせる立場である。それに対して官庁とは自らのシステムに民間を合わせさせるものだ。本人にとってはコペルニクス的転換ともいえる別世界へのトラバーユだろうが、世の中甘くはない。
倒産企業の経営者だった人
大抵このタイプは高い報酬の人が多く、それが倒産の遠因かもしれないということを自覚していない人が多い。そして、報酬をとることができなくなったことをもって「事業の始まり」と考えるのではなく、むしろ「全ての終わり」と考えてしまっている。マイナスから這い上がるのが企業であり創業なのだ。だから、むしろ倒産してからが本番と思わないといけない。
私のように無報酬の期間が通算で10年にも及んでいる経営者には残念ながらまだ会ったことがない。我が社の例でいえば、ほとんどの社員は私より給料が高い。公金を預かるとはこういうことだ。いったん将軍や船長として道を歩み始めたなら、そう簡単に兵士や船員の側に戻ってきてほしくないし、戻らないようにしなければならない。とりわけオーナー経営者だった人は再び企業家・創業者として挑戦して欲しいものだ。一旦取得した「経営者の国」の国籍は安易に手放すべきではないし、たとえ「従業員の国」の国籍を取得したとしてもなかなかうまくやっていけるものではない。
単純作業に耐えられない人
仕事にはランク付けするなら、高次、中次、低次の仕事がある。高度な判断が要求され、それに基づく判断の結果、多くの人の命運が左右されるような仕事は高次の仕事といえる。おまけにこのランクは相当な経験とキャリアが要求される。しかも①おびただしい勝利経験だけでなく、②こっぴどく失敗した経験、それでもなお、③やり続け、生きのびてきた経験による判断を土台にしてこそ、初めて自他ともに納得せしめる決断ができる。だから、中途採用の人にいきなりこのランクになれ、といってもそれは無理な話。せいぜい指示があってから稼動する立場から始めさせるのが妥当であろう。
しかるに、前職時代に高次の業務にコミットする立場にあった人ほど作業を軽視する傾向がある。ひどい場合だと蔑視にも似た感情を抱いている人もいる。しかし、考えてもみよ、延々と反復する単純な作業を蔑視するがゆえの忌避を許していたら、その企業はどうなるかを想像していただきたい。国家的規模でいえば、「3K」としてブルーカラーが嫌われ、国民おしなべてホワイトカラーになるようなものだ。それはもう国家の崩壊といえる。
企業でいえば「下積み」が疎んじられ、白眼視されるようなものだ。「お茶汲み」を命じられたら、人格までも無視されたくらいに思う今日の世相も、先ほど述べた風潮に一脈相通じるものがある。単純作業といってタカをくくってはいけない。「お茶汲み」を忌避する人は、結局それさえまともにできない人になっていく。だから我が社では前職が社長であれ、部長であれ、男女の別なく、お茶汲みや職場の清掃、私の送り迎え等をさせるようにしている。世間様からお金をいただく仕事で単純な作業の組み合わせでないものがあったらお目にかかりたいものだ。
職場には思索したり哲学するような空間はない。明けても暮れても作業に追われ、顧客に追われ、時間に追われるのが企業に身を置くものの宿命である。だから「作業」を低次の仕事と思ってバカにする人は決して入社させてはいけない。昔からいうではないか、「下手な考え休むに似たり」と。
どんどん身体が前に出ていく人、与えられた作業に価値創造性を見い出し、絶えざる創意と工夫を試みる人、そして処理時間の効率化を追求してやまない人、しかもドキュメントを記録に残し、他人がそれを見れば今すぐにでも取りかかれるようにしている人、こういう人こそが、高次の仕事への飛躍を成し遂げられるものと思っている。
まとめにあたり
世の中には平気で人の領土(もの)を取り上げたりする国もあれば、「嘘をつくこと」が「才能」で、「盗み・かっぱらい」が「技術」として評価され、上司が見てないとどうしても「働こうとしない」国民だっている。公心(おおやけごころ)の育たない風土はどれほどの先哲を嘆かせたことであろうか。
私がこの「求人募集」の中で展開した諸見解は外でもない日本人を作る、あるいは国民を作るプログラムだと思っている。なぜならば、それこそが一番、国家貢献度大なるのみならず、世界貢献度の点からいっても抜きん出たものである、と信ずる由縁からである。
(平成22年3月10日 記)
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