終身雇用と実力主義
「わが国における経営のキーワードがあるとすれば、それは終身雇用と実力主義を両立させることだ」
これは30年間に及ぶ学校経営で学んだ私の確信ともいえる結論である。

年齢の「老は」は実力の「老い」ならず

 いきなり具体的な話になるが、当社(九州不動産専門学院)社員の定年は70歳である。しかも、70歳の誕生日を過ぎても、本人が健康で働く意思と能力がある限り嘱託勤務の道もある。現にこの形での嘱託第1号であるSE担当者は、満80歳である。
彼の現在の守備範囲はコンピューターとインターネットである。自社担当部分と外注依存部分をすべての業務分野で並立させている当社のケースでは、80歳の彼はコンピューターにおけるシステム開発やパソコンでのホームページ開発の分野において、それこそ枢要なメンバーの1人になってもらっている。もちろん、毎日出社は70歳で卒業、それ以降は週2日、75歳からは週1日、80歳になった今では月2日の出社に切り替えてもらい、その形を最低1年間は継続してもらうようにしている。あとは誕生日ごとの年次更新や内容改訂で対応している。
 私が年配の社員をどう遇するかは、他の社員にとっては(口にこそ出さないが)相当の関心事であるらしい。人間誰でも平等に訪れてくる「老い」の問題に企業は的確に回答を出さなくてはいけないし、以上の処置が現在の当社の答えと思っていただいて差し支えない。

実力主義は雇用形態か?

 さて、新聞やテレビなどのマスコミは「リストラ」という言葉を氾濫させ、「実力主義の採用=終身雇用の廃止」なる風潮を煽(あお)り立てるのに余念がない。こうした風潮に異議を覚えるのは私1人だけではないだろう。なぜなら「実力主義」とは「人事考課の基準」を言っているのであって、「雇用形態の種類」である「終身雇用」と同列に扱い、論じるわけにはいかないからだ。両者は次元も位相も完全に異なる問題なのである。

企業経営の目的とは・・・

 私は、企業経営の目的は単純に次の3つしかないと思っている。それは、①顧客への良質で安価な商品の継続的な提供、②その商品提供主体たる社員の終身雇用、③以上をもってする国家国民への貢献である。そして「いかにして①と②と③の目的を同時に実現していくか」という設問になって、はじめて「利潤」という概念が必要となってくる。この点、マルクス経済学では、企業経営の目的①・②・③を意図的に捨象していきなり「利潤の追求」を経営目的にスリ替えるという離れ業を展開している。これはありもしない階級対立を煽り立てるために巧妙に仕組まれた「ためにする理屈」であって、到底いただけるものではない。その証拠に旧も新も含めて共産圏では、なかなか市場経済が成り立たない。当たり前といってしまえばそれまでだが、企業経営の目的のひとつである「顧客への良質で安価な商品の継続的な提供」が全く欠落しているからにほかならない。マルクスが終生口にしなかったことのひとつに「お客様」という言葉があるが、その思想的影響下の体制だから推して知るべしであろう。

目標は目的に奉仕させよ

 さて、話を本題に戻そう。企業は①商品提供、②終身雇用、③国家貢献という3つの「目的」を達成するために、利潤の追求という「目標」を掲げるわけだが、それを「効果的・効率的に」成就させるために様々なシステムやノウハウが考案され、体系化されてきた。つまり、「年功序列」や「実力主義」といったものは人事考課面でのシステムやノウハウというわけだ。ここまで展開すれば賢明な皆様は既にお気付きいただけると思うが、「実力主義」とは、企業経営の目的のひとつである「終身雇用」に奉仕する手段(目標)に過ぎないのである。

三世代共存企業、かく成り立てり

 私は経営者としてまず第1になすべきことは、社員の雇用を保証することだと考えている。終身雇用とは経営者(トップ)が社員の一生を預ることであり、それは取りも直さず、社員の側からいえば生涯かけて、自己の最大の能力を顧客に提供し、国家国民に貢献することにほかならない。当社の場合、冒頭に申し上げたように定年は70歳と規定している。しかも、それで「おさらば」ではない。結局、20歳から70歳までの三世代が共に現役で働ける職場が当社の例であり、年長者、年配者の智恵や配慮が若い人に職場で脈々と継承できる仕組になっている。

実力主義の風土にこそ終身雇用の花が咲く

 そして、以上のような職場環境をつくるために、私はこの30年間の学校経営で徹底して「実力主義」を人事考課の基準にしてきた。しかも、「年功序列」のベースの上に 上手に機能させてきたと思っている。すなわち当社の「終身雇用」(目的)は「実力主義」(目標)の風土の上にはじめて花を咲かせることができたのである。「実力主義」を「終身雇用」に奉仕させる形で両者は完全に両立するし、両立させるべきであるというのが結論である。
(平成22年2月24日 記)

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