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くたばれ偏差値

ライセンスメイト篇

平成9年8月号「サイレントマジョリティ」

進路の選択

 私の息子のことでひとつ気になること。今年の春、地元の中学を卒業したのだが、実は進路について先生から以下のようにアドバイスされた。

 公立高校ⒶとⒷとⒸ、私立高校Ⓓが登場する学校とすると、息子はⒶ福岡中央高校に行きたかった。それは、すぐ上の姉が行っているということと、長女もそこを卒業しているということ、加えて私の家内もそこを出ている、すなわち家族の中で3人が出身だったということ。そして、何よりもわが家から近かった。しかし先生はⒷ筑紫中央高校を推薦するに至った、それは単純なランク付けの結果だった。しかし、私は息子に対してⒸ柏陵高校を薦めた。それは父親として、かつ男として息子にピリッとした規律をうえつけたかったからだ。幸い、3番目の娘がそこを卒業しているので学校の校風はそれとなく聞いていた。上下関係の躾、挨拶の徹底、先生への敬意、国旗・国歌を大切にすることを通して日本の国に対する誇りの教育、遅刻の撲滅、清潔な身だしなみetc…。偏差値教育だけでない「何か」を感じて息子をそこにやることにした。幸い息子にそのことを話すと、しばらく考えてから素直に首をたてにふってくれた。「お父さんはお前に足らないものを授けてくれる学校として柏陵を選んだ」と私はありのままの理由を言った。

多様でなければならない生徒の鑑別法

 だいたい、進路指導の先生方には申し訳ないが、わが家では偏差値ほどバカにされているものはない。国民全体を背の高さや体重で順位をつけようとするのと一緒でこんなにくだらない仕分けはない。コンピューターの操作法がそこまで進んだといってしまえばそれまでだが、はっきりいって子供の教育にとっては何のプラスにもならないと確信している。子供は本当に多様である。本来、全く多様であってしかるべき子供たちの中に普遍的と称してもちこまれたバロメーターが偏差値であった。それでは、なぜ駆け足で計らないのか、体重で計らないのか、身長で計らないのか、腕力で計らないのか、勇気で計らないのか、親孝行で計らないのか、同級生への思いやりで計らないのか、 勉強態度で計らないのか、聞きわけのよさで区別しないのか、兄弟姉妹への愛情で見ないのか、家業継承への熱意で見ないのか、と疑問は際限なく続く。

アグリカルチャー(多様な文化)とモノカルチャー(単一の文化)

 かつて西欧列強は亜細亜の豊かな土壌で育まれてきた(それこそ多様な文化という意味である)農業(アグリカルチャー)を徹底的に破壊し、単一の文化を押しつけてきた。デカン高原の綿花栽培などその典型だ。結局、綿花という単一の文化以外は全て西欧に依存しなければ1日たりとも生きていけない畸形的な国家を形づくらされてきた。つまり、まがりなりにもトータリティーあふれる文化を誇ってきた国々をモノカルチャーに転換させ、西欧列強に従属せざるをえないように仕掛けてきたのである。「オイスカ」は農業技術の普及を通して、そのようなモノカルチャーの文化圏へもう一度トー夕リティー(アグリカルチャー)の灯を点しにボランティアでいっている。

 丁度、私たちが学生に、生徒に、そして児童におしつけている文化はこのような偏差値栽培というモノカルチャーそのものに外ならない。「そこのけ、そこのけ、偏差値が通る」式にして他の全ての多様性をないがしろにし、おしつぶしていっているのが偽らざる姿なのだ。

 学校は入学したい人から学校独自の採点をして入学を許可すればよいだけのことである。偏差値の評点など全く度外視すべきである。「お前は甲のゾーンがダメだから、乙のゾーンにいけ」式の指導はそれこそ指導の名をかたった家畜の仕分けである。1人1人の子供たちは皆それぞれその子しか出来ない使命をもってこの世につかわされた宝物である。しかし、見る側が1面しか見れない目であればその子供たちの1面しか見れないだろう。

進路選択は問題意識が前提 その間題意識を育てるのが教育

 すなわち、子供の教育と進路の指導とはすぐれて教師自身の自己研鑚の無限連鎖に他ならない。正六面体から正八面体、正十二面体と他人を見る目が複眼になっていくプロセスが必須の条件であろう。先生は生徒にまずもってこう尋ねるべきである。「何になりたいのか、何をしたいのか、その為にどの学校に進みたいのか」。次に、親にはこう問うべきであろう。「子供を何にしたいのか、何をさせたいのか、その為にどの学校に進ませたいのか」。いずれにしても学校の問いは最後であってしかるべきである。

 今、息子は柏陵に通っている。