閉じる

メニュー

介護時代前史

ライセンスメイト篇

平成11年7月号「サイレントマジョリティ」

 タクシーに乗った時の話だ。運転手いわく「子供が2人いるが、上は九大の大学院、下は修猷に通っている。子育ては本当に大変だ。上を大学院までいかせているので、下も希望すればそこまではやってやろうと思っている。」私は車中、話をしながらこの運転手に哀れを感じてならなかった。

 昭和22年生まれ、51歳という彼は「子供に苦労はかけたくない」という。子供は父である彼にこう言うそうだ。「私たちの学業継続のために細く長く働いてもらいたい」と。思わず私は彼に尋ねた。「お父さん方のために子供さんたちは何をしてあげようと話してられますか」。回答はなかった。恐らくこういう問いかけ自体が彼の頭の中にはなかったのだろう。彼の中には学校教育のコストとその間の子供の生存コストのために身を粉にして働いている運転中の姿はあるが、子供の教育のために腐心している父親の喜びや苦悩は感じられなかった。

 とかく、校舎やキャンパスという「施設」に高額をかけて子供を「預け入れる」ことをもって子供を「教育している」と錯覚している親御さんの何と多いことか。教育こそ最高にオリジナルでなければならないし、親こそ子供にとって最高の師であらねばならないと思っている。親は単なる学費の運び屋でもなければ、お手当をくれるパトロンでもない。

 学校にはさほど期待しない方がいい。学校でしてくれることといえばせいぜい「徳育、知育、体育」の中の知育ぐらいのものである。学生に知識を与えその担い手にすることまでが限界力量と思うべきだろう。与えられた知識をいかに体系化し、豊富化するかはやはり本人自身の問題だ。また徳の担い手、働き手になるか否かは家庭教育に淵源をもつ。だから泥棒の子は所詮泥棒と思ってさしつかえない。離婚家庭で育った人が終生結婚と闘うハメになるのはこの理由による。

 他人の家庭とその教育に土足で踏み込むわけにもいかないのでスリッパにはきかえて言わせていただければこういうことだ。

マチガイ(その1)

 親が子供のために一身をなげうつという「親の考え」はいっこうにさしつかえない。しかし、親は子供のために一身をなげうつべきであるという「子供の考え」を改めさせていないこと。

マチガイ(その2)

 子供が大学にいこうが、大学院にいこうがこれもいっこうにさしつかえない。しかし、大半は本人の興味探求や栄達のためであろう。国や郷土のためとか親や家族のために上級学校に進学するケースは稀有なことになってきている。つまり、子供は本人の夢や幸せの実現のために親を利用しているのあって、そのことに親は気づくべきなのだ。すなわち本人の希望成就のためには本人の努力(資金捻出)でいかせるべきである。(支那人の留学生はみなそうしているではないか。)軽い脳梗塞を患ったという彼はまめらない舌で「あと10年は現役でがんばる」という。また子供は子供で「細く長く(私たち子供の学費と生活費のために)働いてくれ」という。こんな子育てがあるか!

マチガイ(その3)

 資金支援する(=「与える」)ことをもって子供への愛情と信じて疑わない考え方!子供への愛情表現の中には資金支援しない(=「与えない」)ことだってある。おそかれ早かれ親には老いがきて与えることはできなくなる。だから「できる」時代から「しない」関係を築き上げ、「できなくなる」時に備えなければならない。そして、この対応こそが子供を自立させていくことになるのだ。

マチガイ(その4)

 修猷にいっている下の子供にはいっさい家事の手伝いをさせないという。(なぜなら、九大に入れなくなるから、という)彼は自分の子供をゲスト(お客様)として育てている。しかし、子供はその家のメンバー(構成員)だ。①飯を食うことに参加するなら、②ごはん炊きにも参加させるべきである。③お茶碗洗いにも参加させるべきである。当然のことをさせて九大に入学できなければそれは手伝いのせいではなく、本人の能力の問題である。一体、誰が①の飯を食うために時間をとられて九大に入れなかったと言うであろうか。②、③の仕事をしない子供には①をさせたらダメだ。とんでもない「学士」ができあがる。

 タクシーの運転手は恐らく自分の子を秀才だといってほめてもらいたかったのだろうし、自慢したかったのだろう。私は話をさえぎる訳にもいかず聞き流していたが、彼が、両親に対して「老後のことは私にまかせろ」とタンカを切れるような人間を育てようとしていないことだけはハッキリした。教育の大本は実の親の面倒を見る人間を育てることである。それだけに彼が哀れでならなかった。なぜならば身を粉にして将来、まちがいなく「自分自身を見捨てるであろう」人を育てているのだから。