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採用と不採用/ 失敗談(中途篇)

福岡2001篇

平成13年8・9月号「こころの経営ゼミナール」

 採用とか不採用とかはメダルの裏表をいっているにすぎないのであって、多少リアリズムめいた言い方をすると「メダルの裏表業務」の核心とは「人の選別・差別」以外の何ものでもないということだ。数多くの応募者の中から「本物の志願兵」を絞り込み、更に「しなやかで強力な素材」を絞り込んでいく。

 戦後、56年にもなる「教育勅語不在教育」の真っ只中で丸ごと育った人が国民の9割以上を占めるようになった昨今の世相の中で、この考え方で採用・不採用業務を貫徹していくことは、相当の思想性が要求される。しかし、この競争社会で中小企業が成功して顧客に満足いく商品を提供することができ、かつ、構成員に将来展望を与え、もって国家に貢献することができるとしたら、それは、一にも二にも「勝ち抜く」(あるいは「負けない」)ことが絶対前提だ。そして、その絶対的なる前提を成就・構築できるのが、犬でも猿でもなく人(ひと)しかいないとすれば、「採用・不採用業務」を戦略的勝利のための戦術=水際作戦として位置づけることこそが最重要の課題ではないだろうか。

 さて、中小企業ほど「一騎当千」の強者(つわもの)を必要としている分野はない。しかし、そのような強者集団は決して「不適格な素材」の上には成立しないのも冷厳な事実だ。それゆえ、そのような「素材=人材」の採用、企業にそして職務に「忠節を尽くすを本分とする」社員の採用にこそ、中小企業盛衰の鍵がある。

 そこで、過去の失敗事例に基づいて、中途採用の場合であるが、慎重に対応すべき人をこれから述べてみよう。よって応募する人で、万が一、該当する項目があれば直ちに自省し、家族共同体の一員になる覚悟を改めて固め直してもらいたい。しかし、まずは良き国民、立派な日本人になることから出発し直してもらいたい。さすれば、必ずや「良縁」に巡り合うことであろう。

余りにもブランクが長い人か前職確認のとれない人

 その間、どうやって食っていたのだろうかと不思議な思いを抱かせる人がいる。いちいち書き込めないほどの流浪の人生をおくってきたか、余りにも転職経験が多いか、あるいは無為徒食の人生だったかのいずれか一つであろう。そうでなければ刑務所にでも入っていたのか、悪事に手を染めていたのかもしれない。とにかく仕事と仕事のブランクが余りにも長期に亘っている場合は、本人が履歴書に修正記入、追加記入でもしない限り要注意だ。

 また、余り知られたくない過去をもつ人は、己の業務経歴に「倒産企業」を列記し、脚色を施すことがある。これでは前職確認のウラが取れない。当の本人にとってはウラを取らせないことが狙いだろうが、仮に本当に在職していたとしても疫病神であることに変わりはない。人生、通過してきた会社が全て倒産してしまっているというのは悲しいことには違いないが、どうもこの手の人は「不幸の手紙」を思い出させていけない。他の会社に応募し直してもらいたいものだ。およそ、企業の倒産とは経営者と従業員の合作による「負の業績」である。経営者だけが指弾されることではない。

組合活動家だった人

 活動場所が民間にせよ官庁にせよこの手の人は要注意だ。とりわけ専従者だった人はよほどのことでもない限り、思想に惚れ込むことはあっても企業への忠誠を期待することは難しい。

 国旗よりも、社旗・校旗よりもむしろ「組合旗」に対して起立するような教育を施してきた張本人である彼らは、そもそも就職の目的がその職場で働き顧客に奉仕することではなく、「組合結成」であったりすることすらある。私たちのように「国家社会に貢献する」ために年中無休で営業活動に専念している職場と対極にあるのがこの手の人の世界観で、自分たちの要求が通らないと実力行使をしてでもスローガンを貫徹しようとする。

 わかりやすくいえばこうだ。生徒さんから預ったお金はしっかり頂いておきながら、講義実行等の役務提供段階で「春闘」とか何とかでストライキ等の実力行使を図るという考えである。社会人の皆さんが汗水流して働いてかちとった給料の一部を私たちは受講料として預っている。その一部が社員の生活資金として支給(給料)されるのだが、それはしっかりと使い果たしながらも、職場放棄等をされ、授業や講義を停止させられたのでは契約も社会的信用もあったものではない。生徒さんの身になって考えれば「泥棒」や「詐欺」と何ら変わることがない。

 それゆえ、このような事態に陥らないようにするためには、私はこのような人にはどこかの政党の事務所にでも行ってもらうように説諭している。なぜならば、私たちは業務に取り掛かる姿勢の拠り所を「教育勅語」や「軍人勅諭」に置いている。国家貢献を合い言葉に日日初心、滅私奉公で職務に精励している家族共同体が私たちのグループである。よってすべての人間関係や社会的事象を階級対立や唯物史観でしか把握できない人の入社は御免こうむりたい。私たちは愛国心を土台に「義理と人情」で団結している国民・日本人の組織だからだ。

公務員感覚の人

 元公務員の一人として言えることは、長年の月~金、9時~17時で培われた公務員感覚は一朝一夕でとれるものではない。時間優先主義の風土の中で形成された(後天的)体質を民間の成果第一主義・顧客絶対主義の体質に改造するのは容易なことではない。「過程」評価主義から「結果」絶対主義の世界への飛躍ということを理解しないで、単なる転職と安易に考えると大変なことになる。

 民間と官庁との決定的差異は①「競合」の有無と②財務基盤の違いといっていいだろう。官庁には競合は存在しない。また民間は売上に給与資金の淵源をもつが、公務員給与は租税による予算措置にその淵源をもつ。

 また、民間では「納期厳守」が絶対であるが、官庁は「定時退庁」が支配的だ。民間では己の身柄を定刻までに会社に「納品」し、約束した期限までに顧客に商品を「納品」する。そして、その目的達成のためには当然「定刻退社」を犠牲にする。民間では「納期」が守られなければペナルティが課せられるか、返金になる。事柄の是非はともかく、これが官庁の外の世界の常識であり、この常識が毎日毎日、それもひとつひとつの取引に個別に要求されるのがまぎれもない民間の風土なのだ。

 また、中小零細企業では月・金、9時・17時のごとき活動では到底社会から認知されるものではない。「身の程知らず」というものだろう。民間の立場とは、顧客の都合に合わせる立場であり、官庁に合わせる立場である。それに対して官庁とは自らのシステムに民間を合わせさせるものだ。本人にとってはコペルニクス的転換ともいえる別世界へのトラバーユだろうが、世の中甘くはない。

倒産企業の経営者だった人

 大抵このタイプは高い報酬の人が多く、それが倒産の遠因かもしれないということを自覚していない人が多い。そして、報酬をとることができなくなったことをもって「事業の始まり」と考えるのではなく、むしろ「全ての終わり」と考えてしまっている。マイナスから這い上がるのが企業であり創業なのだ。だから、むしろ倒産してからが本番と思わないといけない。

 私のように無報酬の期間が通算で10年にも及んでいる経営者には残念ながらまだ会ったことがない。我が社の例でいえば、ほとんどの社員は私より給料が高い。公金を預かるとはこういうことだ。いったん将軍や船長としての道を歩み始めたなら、そう簡単に兵士や船員の側に戻ってきてほしくないし、戻らないようにしなければならない。とりわけオーナー経営者だった人は再び企業家・創業者として挑戦して欲しいものだ。一旦取得した「経営者の国」の国籍は安易に手放すべきではないし、たとえ「従業員の国」の国籍を取得したとしてもなかなかうまくやっていけるものではない。

単純作業に耐えられない人

 仕事にはランク付けするなら、高次、中次、低次の仕事がある。高度な判断が要求され、それに基づく判断の結果、多くの人の命運が左右されるような仕事は高次の仕事といえる。おまけにこのランクは相当な経験とキャリアが要求される。しかも①おびただしい勝利経験だけでなく、②こっぴどく失敗した経験、それでもなお、③やり続け、生きのびてきた経験による判断を土台にしてこそ、初めて自他ともに納得せしめる決断ができる。だから、中途採用の人にいきなりこのランクになれ、といってもそれは無理な話。せいぜい指示があってから稼動する立場から始めさせるのが妥当であろう。

 しかるに、前職時代に高次の業務にコミットする立場にあった人ほど作業を軽視する傾向がある。ひどい場合だと蔑視にも似た感情を抱いている人もいる。しかし、考えてもみよ、延々と反復する単純な作業を蔑視するがゆえの忌避を許していたら、その企業はどうなるかを想像していただきたい。国家的規模でいえば、「3K」としてブルーカラーが嫌われ、国民おしなべてホワイトカラーになるようなものだ。それはもう国家の崩壊といえる。

 企業でいえば「下積み」が疎んじられ、白眼視されるようなものだ。「お茶汲み」を命じられたら、人格までも無視されたくらいに思う今日の世相も、先ほど述べた風潮に一脈相通じるものがある。単純作業といってタカをくくってはいけない。「お茶汲み」を忌避する人は、結局それさえまともにできない人になっていく。だから我が社では前職が社長であれ、部長であれ、男女の別なく、お茶汲みや職場の清掃、私の送り迎え等をさせるようにしている。世間様からお金をいただく仕事で単純な作業の組み合わせでないものがあったらお目にかかりたいものだ。

 職場には思索したり哲学するような空間はない。明けても暮れても作業に追われ、顧客に追われ、時間に追われるのが企業に身を置くものの宿命である。だから「作業」を低次の仕事と思ってバカにする人は決して入社させてはいけない。昔からいうではないか、「下手な考え休むに似たり」と。

 どんどん身体が前に出ていく人、与えられた作業に価値創造性を見い出し、絶えざる創意と工夫を試みる人、そして処理時間の効率化を追求してやまない人、しかもドキュメントを書類に残し、他人がそれを見れば今すぐにでも取りかかれるようにしている人、こういう人こそが、高次の仕事への飛躍を成し遂げられるものと思っている。

まとめにあたり

 世の中には平気で人の領土(もの)を取り上げたりする国もあれば、「嘘をつくこと」が「才能」で、「盗み・かっぱらい」が「技術」として評価され、上司が見てないとどうしても「働こうとしない」国民だっている。公心(おおやけごころ)の育たない風土はどれほどの先哲を嘆かせたことであろうか。

 私がこの「求人募集」の中で展開した諸見解は外でもない日本人を作る、あるいは国民を作るプログラムだと思っている。なぜならば、それこそが一番、国家貢献度大なるのみならず、世界貢献度の点からいっても抜きん出たものである、と信ずる由縁からである。