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中小企業盛衰の岐路は「覚悟した戦略」の有無にあり

博多独楽篇

平成13年3月号「私的経営のこころ 中小企業の生き延びる道(15)」

3LDKに8人家族+社員1人の共同生活

 ほとんどの経営者の直面する課題の1つに、いかに 「人材」を獲得するかが挙げられる。しかし「人材」と言っても単なる労働力としての人材=人手、求められる戦力となる人材=人財、周囲に悪影響を及ぼす人材=人罪。このように人材は3つに大別される。

 会社が何か大きな転換を図る場合、既存のメンバーが淘汰されることがある。昭和60年元日から、当学院は社員全員を日曜出勤に変えた。当時から日曜講座を設けてはいたのだが、以前は正社員を当番制にして、残りはアルバイトで補っていた。しかし助っ人だけで対応するイレギュラー性がある限り、それは骨格には成り得ない。サービス業である当学院の役割を考えると、会社員が通常休みである日曜日と終業後の夜間こそが、業務の骨格となるべき時間帯なのだ。日曜出勤の通達は前年の10月から12月にかけて行なったが、この間に社員が次々と退社していったのだ。さらに昭和60年4月からの夜間勤務も加わり、社員数は事業存続の危機に関わるほどに激減した。20数名の社員のうち、最終的に残ったのは私と家内を除いて4名だった。しかし、辞めていった社員も勤務形態を改革しなければならなかった私自身も、共に仕方がない選択だった。その社員たちにも家族はあり自分のライフスタイルはあっただろうし、私とて経営者としての決断が強いられていた。今のトップはここまで自らの立場に忠実たり得るだろうか。

 あの端境期は非常に苦しかった。私と妻を含め営業戦力となるのは、たったの3人。なんとか学院を持ちこたえさせなければいけない。そこで家族に協力を得て始めたのが、信頼をおく1人の社員との共同生活であった。その時の我が家は3LDK、8人家族。ただでさえ手狭な家にまた1人増えるのだから、娘たちはかなり不満だったらしいが…。その社員には娘の部屋だった4畳半の部屋を与え、そのかわりに私は食卓のテーブルの下で床をとることもたびたびあった。私と家内、そして彼が同じ家から7時50分に出動して、深夜2時ぐらいまで働く毎日。寝食を共にするわけだから、意志統一、結束も強くなるわけだ。昭和60年12月から昭和62年5月まで、そういう生活が続いた。そして会社は立ち直ったのだ。

風雪を耐え忍びながら獲得してきた「人財=戦力」

 その後、日曜に不動産系講座を開講する大手学院が福岡の地に進出。それまで日曜のサービス対応の移行に企業努力を怠ってきた地場の学院は当然のことながらことごとく壊滅していった。しかるべき時に、経営者が決断していなかった結果だ。覚悟なき経営の末路と言えるだろう。それほど覚悟とは企業の命運を分けるものだ。経営者の求める 「人財」を確保するということは、その「覚悟した人間」 の頭数をどれだけ増やせるかということだ。大企業でも覚悟ができていない人の集まりならば、怖くもなんともない。優秀な人でも臆病な人間もいる。優秀でなくとも勇気のある人間もいる。固い決意のあるメンバーでなければ凱旋は不可能なのだ。だから入社に際する面接の時には、現状の待遇や勤務時間などについて嘘・偽りは言わないし、面接に立ち合った者を必ずその新入社員の上司につけることにしている。

 企業には自壊はあるが他壊はない。売上げは確かに重要だが、多くの中小企業は内政をお座なりにしている。経営者の目的はまず人的組織を構築すること。そこから自ずと売上げは上がってくる。逆に目的が売上げだったらどうか。自己の生活を破壊し、家庭を顧みなくなる。そこから組織は自壊していくのだ。だから私は必要勤務時間にしても、程度を弁えているつもりだ。夜間勤務と言っても、男たるものが1年の半分も夜の9時30分まで仕事に精力を燃やせないというのでは、あまりにも頼りない話ではないか。

 「人財」獲得において、時に中小企業は及び腰になる。売り手市場になると、一緒に戦うべき社員がお客様扱いになってしまう。喉から手が出るほど人手が欲しいのは分からないこともないが、それをとことんせざるを得ないというのであれば、私は経営者にはなっていない。事業を興して、社会に必要とされるレベルにまで持っていき、比較的長い生命が保てる事業を実現しようと思うと、“私のビジョン”というものに納得してついできてもらわないと、経営者になった意味がないではないか。一緒に覚悟を決められる「人財」。私は体力と忍耐力で風雪を耐え忍びながら、年月を費やしてでも、この「人財=戦力」を今日まで獲得・育成してきたのである。