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海の彼方のニッポンを訪ねて

ライセンスメイト篇

平成20年3月号「祝辞 台湾慰霊訪問の旅によせて」

 日本と台湾との関係は百十三年前に遡る。明治二十七年七月我が国は朝鮮の独立をめぐって清国と戦端を開いた。八ヵ月に及ぶ戦いのすえ勝利、翌二十八年四月台湾が我が国に割譲された。以後、昭和二十年八月十五日に大東亜戦争で敗れ、ポツダム宣言を受諾し、台湾の主権を放棄するまでの五十年間我が国は台湾を統治した。清国から「化外の地」と言われていた台湾に我が国の父祖は莫大な国費を投じ、風土病の撲滅・公衆衛生の推進、教育の普及、殖産興業、社会資本の整備を行い、近代国家の礎を築いた。

 しかし戦後、支那大陸で毛沢東率いる中国共産党との戦いに敗れた蒋介石率いる国民党(亡命政権)が台湾に逃れ、それに伴い大陸から多くの外省人(主に漢民族)が流入。本省人(父祖の時代から台湾に住んでいる人)との間に様々な軋轢を生み出した。二十四年には全土に戒厳令が敷かれ、やがて日本語・台湾語の教学禁止令が布告、反日教育が進められていった。 また四十七年日本と中国との国交正常化に伴い、台湾との国交は断絶。以後、日本との公式な交流は途絶えた。しかし六十三年に李登輝総統が登場し国民党一党支配の政治は終焉、台湾は一気に民主国家へと突き進んだ。 国交断絶後も民間レベルで続いていた日本との文化・経済の交流は更に加速され、今日に至っている。

 二十一世紀の東アジアの平和と繁栄は、日本と台湾との強固な関係なくしては存在しない。日華(台)親善友好慰霊訪問団(略称、訪問団)結成十年の節目にあたり、台湾に父祖が築いてくれた遺産や歴史を正しく顕彰するとともに、一日も早い日本と台湾との国交回復を願って訪台している私たちの活動をご紹介し、関係各位のご理解とご支援をお願いするものである。

台湾の英霊顕彰こそ日台の真の絆

 英霊顕彰の行為なくして

  誠の家族(兄弟)交流なく

 その絆と広がりなくして

  日台両国の国交回復なし

 これは、私たち日華(台)親善友好慰霊訪問団の信条である。私たち訪問団が台湾を訪問する第一義の目的は、先の大戦で日本人として亡くなられた台湾人三万三千余柱に、日本国民としての追悼と感謝の誠を捧げ、顕彰することである。

 先の大戦が我が国の自存自衛とアジア解放であったことは歴史が証明している。幾世紀にも及ぶ白人による植民地支配の歴史を終焉させ、民族の独立と自由を勝ち取る大儀に、我が国の先人や父祖、当時日本領土であった台湾及び韓国の人々は立ち上がり、生命をかけて戦われた。大東亜戦争を経験した台湾の高砂族のある古老は次のように語っている。「我々は台湾に来たオランダにも鄭成功にも、清国に対しても屈従しなかった。しかし、日本だけは別だった。それは大東亜戦争の魅力に勝てなかったからだ。」

 しかしこの崇高な行為に対して、戦後我が国は台湾の元同胞の人々に対して十分な感謝の誠を捧げてこなかった。終戦後、インドネシアの独立に際して約二千人の日本人が現地に残り、蘭軍や英軍と熾烈な独立戦争を戦いその半数が生命を落としたが、インドネシアはそれら我が国の同胞をカリバタ英雄墓地に祀り、最高の栄誉と感謝の誠を捧げている。一方、韓国に対しては日韓の間に歴史問題が残り、当時の我が国の真意と努力が韓国の人々に曲解されている点は我が国政府の対応に不満はあるものの、昭和四十年の国交回復に際して韓国復興へ巨額の支援を行い、経済復興・民族自立発展への道を開いた。このことは大東亜戦争に尽された韓国の戦死者の方々にも報いる行為であろう。

 しかし台湾に対しては、戦後、蒋介石率いる国民党に支配されて以降、「台湾は台湾人のもの」との本省人の願いは無視され、今なお「一つの中国」の政策に縛られ、我が国政府もその声には耳を傾けていない。これでは嘗て我が国及びアジアの国々の独立の為にわが身を顧みず尽してくれた元日本人の台湾軍人・軍属に対して申し訳が立たない。私たち訪問団は台湾を訪れる以上、それら英霊の方々に日本国民としての敬意と感謝を捧げる行為なくして真の交流はない、そう判断して英霊顕彰を目的にした訪問団を結成することにしたのである。

 

英霊に導かれた私たちの訪問団 

 

 私たち訪問団の第一次結成は平成十一年である。毎年団員を募って組織し、昨年で九回目を数えた。これまでの参加者は延べ二百三十人、一行の平均は二十五人強である。

 平成十一年(第一次訪問団)は三月六日から九日までの三泊四日で実施した。この訪問団の立ち上げに際しご指導戴いたのは、当時、福岡県郷友会事務局長の日高清先生である。日高先生から、「せっかくお金と時間をかけて台湾に行くのであれば訪問団に名称をつけなさい。ただの旅行の一団では先方にも忘れられ、私たちの記憶も限りなく曖昧になってしまう。そして名称には必ず『慰霊』という文字を入れるように。これがなければ意味がない」とアドバイスを戴いた。第一回目(第一次訪問)は社員旅行を兼ねていたこともあり、団の命名にまで考えは及んでいなかった。しかしそのご指摘は深く受け止め、団体の名称は「日華(台)親善友好慰霊訪問団」と定めることにした。この命名こそわが訪問団の運命が大きく展開していった、すなわち英霊の方々との深い関係が生まれていった要因ではないかと思っている。

 第一次訪問団の二日目のことである。宿泊した台湾東部の花蓮から中央部にある日月潭へ向かう途中、太魯閣峡谷を通過した。観光名所で有名なこの峡谷は、両岸を断崖絶壁が二十キロにも亙って続き、その下を縦横に曲折する渓流が水しぶきをあげている。私たち一行のバスは、眼下に数十メートルもの崖を見下ろしながら山の中腹を縫うように走った。

 ところが、途中からバスの運転手は、私たちの前を走っていた遅い車による時間的遅れを取り戻すために、片道一車線の右左にカーブするこの危険な道路で、次々と前の車を追い抜く暴走運転を始めた。加えて眠気さましに濱榔椰子を齧り、その興奮も手伝って速度は更に上がった。心中穏やかならぬ団員の気持ちもよそにバスは猛スピードで急カーブに突入。対向車との正面衝突は危うく避けたが、その切り返しで谷側のコンクリート製のガードレールに衝突。バスの左前方部はガードレールを越え、峡谷の上にはみ出して止まる事故を起こした。一歩間違えば峡谷に転落、全員即死という大惨事であった。私たちは揺れるバスの後部の非常口から慎重に脱出した。しかし、付近は人家もなければ携帯電話も届かない。日月潭に到着すべき予定の時刻は刻一刻と迫っているのに為す術がない。そのときである。一台の大型のクレーン車が偶然通りかかり、私たちのバスを道路に戻してくれたのである。

 翌朝代替バスが手配された。それは日本海軍の旭日旗を会社のマークとする朝日バスだった。後で分かったことだが、朝日バス会社の社長の蕭興従氏は、元日本海軍の軍属の方であった。私たち一行が台中にある宝覚禅寺の日本人墓地で日の丸を掲揚して、国家「君が代」を斉唱し、慰霊祭を行っているときに、バスで待機していた運転手が私たちを日本から来た戦友会と勘違いされ、父であり社長である蕭興従氏に報告されたのである。

 日本に帰国した三ヵ月後の六月、蕭興従氏より私の手元に十一月二十五日に宝覚禅寺で実施されている慰霊祭のご案内状が届いた。このとき初めて同日同場所で元日本軍人・軍属の方々による慰霊祭が行われていることを知った包その年、次女と二人でご招待戴いた慰霊祭に参加させて戴いた。翌年の第二次訪問団からの訪台は、十一月二十五日の慰霊祭に合せて十一月二十三日から二十六日にかけて実施することになったのである。

 顧みれば、このとき太魯閣峡谷で事故に遭わなければ、クレーン車に助けられて翌日代替の朝日バスに出会うことも、蕭興従氏との知遇を得ることもなく、十一月二十五日の慰霊祭のことも知らなかったであろう。しかも不思議なことに、蕭興従氏と私の父は終戦後、フィリピンにあった米軍のカランバン捕虜収容所に一緒に囚われていたのである。ここまでの偶然があるだろうか。私は第一次訪問団を体験して余りにも重なる偶然の多さに驚き、明らかに英霊の方々の導きと確信した次第である。「慰霊」の文字を掲げ、亡くなった台湾人の軍人・軍属の方々に日本人としての誠を尽す訪問団の趣旨に、台湾の英霊の方々は心から歓迎され、私たちと地元の台湾の戦友会の方々とを結びつけて下さったのではないかと感謝している。