【がんばれ高校生】有言実行 | 九州不動産専門学院グループ


 

がんばれ高校生

ライセンスメイト篇
平成9年6月号「サイレントマジョリティ」
合格祝の席で
 この度は柏陵高校に合格できた事を本当に感謝しています。1年の時から3年間、いろいろな事を教えてくれた徳久先生、ありがとうございました。進路のことを本当に考えてくれた松尾先生、ありがとうございました。また、ここにはこられていませんが、僕のいろいろな面を伸ばしてくれた馬奈木先生、ありがとうございました。お父さん、お母さん、ありがとうございました。小さい頃からかわいがってくれた西新のおじいちゃん(故人)、千葉のおばあちゃん(故人)、ありがとうございました。亜希子姉ちゃ紀子姉ちゃん、那津子姉ちゃん、冬子姉ちゃん、いろいろと励ましてくれてありがとうございました。柏陵高校に入ったら勉強と部活を両立できるよう励み、日本のためにがんばりたいと思います。
平成9年3月22日(土)
健太郎・満15歳

 以上は、息子が合格祝の席で挨拶した一節である。よほど柏陵高校に受かったのが嬉しかったのだろう。今までいろいろとお世話になった方々への感謝の気持ちが溢れている。私はこれを聞いて安心した。まず①自分一人が頑張ったから通ったんだという思い上がりがないこと、次に②周囲の人への感謝の気持ちを忘れないでいること、そして③文武両道(バランスある成長)を目指していること、最後に④世のため、国のためにがんばり、ご恩返しをしようとしていること等々の理由である。

男にとって15歳とは
 私は息子に「日本男児」は15歳になったら元服といって立派な成人男子の仲間入りが出来ると同時に、お家の為、お国の為には立派なお侍さんとして戦場に赴き、生命を賭して戦う義務も発生する旨を話してきかせた。そして「アンカー」(092-291-1657)という軍歌の店に連れていき、60年前の15歳の日本男児の姿を映像で見せてやった。息子は帰り「僕、余り今のカラオケに興味がなくなった」といったのが印象に残っている。

息子の任務
 私の父は、昭和20年、フィリピンのルソン島北部のツゲガラオという海軍の飛行場から、台湾の高雄へ飛び立った時、米軍から襲撃されて九死に一生を得た経験の持ち主である。17歳の昭和11年6月1日に、横須賀海兵団に志願兵として入隊した父は、海軍航空隊に勤務し、国軍兵士としての自覚と誇りに燃えた青春時代を過ごした。その父が受けた最大の危機が26歳の誕生日、昭和20年2月11日である。乗員24名中、23名戦死。奇跡的に助かった父から戦後生まれた唯一の息子が私である。
 そして、その私(家内)から生まれた唯一の男子が先程紹介した「健太郎」である。だから、私の父が戦死していたら私はもちろん、健太郎もこの世には存在していないことになる。この頃、こういうことが妙に不思議に感じられることがある。
息子も同感のようだ
 息子には機会ある度に、このような話をしていっているが、さぞかし亡くなられた23名の兵隊さんは無念であったに違いない。帰還を心待ちにしている奥様方もおられたはずだ。また、子持ちのお父さんもいただろう。独身の人もいたはずだ。そのような、戦死して英霊となられた23名の無念さを一身に背負って生まれたのが私であり、その系譜を継承しているのが私の息子、健太郎ということになる。この頃、息子もそのことを少しは感じてくれるようになってきた。

戦争の悲惨さなど比べものにならない敗北の悲惨さ
 息子に教えていることで大切なことは「戦争は激烈、苛烈であり、言いようもなく悲惨である。しかし、敗北することは戦争の悲惨さなどとは比べものにならないほど悲惨である」それゆえ「戦いには絶対に勝たなければならない」ということだ。敗北することの悲惨さの第1は、勝利した側への寝返り組を内部から必ず発生させること。第2は、勝利した側の秩序というか、いわゆる体制を敗けた本人たちだけでなく、幾世代、子々孫々に至るまで強制されるということである。究極的に国家・民族の滅亡であり、消滅である。これは武器を使った戦争であれ、パンフレットを使った企業間競争であれ本質的には変わりはない。

臥薪嘗胆、そして「男は強くあれ」
 臥薪嘗胆を決意し、実践できない企業、国家、民族は存続するに値しない。日本民族は武士(もののふ)の子孫である。孜々営々と力を貯えていって欲しいものである。社会貢献、歴史貢献というものを真剣に考え、実践しようとすればするほど、強くなろうと意欲するのは当たり前のことである。
 息子に教えていく父親の最大の言葉は「男は強くあれ、そして情け深くあれ」これ以外にない。断じて「他人に迷惑をかけるな」であってはならない。
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