【餞(はなむけ)の言葉】有言実行 | 九州不動産専門学院グループ


 

餞(はなむけ)の言葉

ライセンスメイト篇
平成24年12月号「祝辞 社会人部門卒業式によせて」
 私事(わたくしごと)で恐縮ですが、父の小菅紀武吾(〔曾祖父〕小菅庄吉の長男である〔祖父〕小菅與四郎の三男として大正8年12月11日生、平成17年4月30日没)は、「二・二六事件」の余韻も冷めやらぬ昭和11年6月、大日本帝國海軍に志願し、横須賀海兵団に入営しました。17歳の時です。軍隊では戦艦陸奥等での戦艦勤務や方々の海軍航空隊での陸上勤務を経た後、霞ケ浦海軍航空隊で予科練の教官になりました。そういう父が、看護婦だった母との新婚生活も早々に米軍と一戦を交えるべくフィリピンに赴任したのは昭和19年6月のことでした。その後、ルソン島北端ツゲガラオの海軍航空隊基地にいた父に再び霞ケ浦への転属命令が下りました。(内地での教官不足を歴戦の実戦経験者で補う意図であったと聞き及んでおります。)
 24人乗りの輸送機に搭乗し基地を飛びたった昭和20年2月11は父の26歳の誕生日でもありました。基地を離陸し一路高雄(台湾)へと向かう途中、飛行機は原因不明のエンジントラブルを起こしたため、やむなく引き返しルソン島からバシー海峡へ流れ出るカガヤン川へ不時着しました。11日深夜のことです。川の東側は米軍制圧地域でしたが、そちらに上陸せざるを得なくなり、結局24名中23名が銃撃され戦死しました。身に寸鉄を帯びず川に飛び込み対岸にたどりついた父はそこから40数キロも離れているツゲガラオまで裸足で走って帰還しました。しかし、そういう父たちの健闘も空しくわが国は敗れました。
 マニラ郊外のカランバン収容所での捕虜生活の後、昭和21年暮れに復員してきた父と母の間に小菅家の三男として生まれたのが私です。出生時は「お産婆さん」が間に合わず父が取り上げてくれました。母は私を出産しながら父に色々と指示をし、父もその通りに対応した結果、無事に産声を上げたということです。カガヤン川で戦死された23名の命は、こうして戦後に引き継がれました。
 以上のようなことを幼いころからずっと聞かされて育てられた私は妹二人の面倒を見ながら、小五から高三までの8年間、新聞配達をして過ごしました。その間ずっと級長をしていたにもかかわらず勉強のためにまとまった時間がとれなかったお陰で、端切れの時間を有効に活用する名人になれました。机も椅子もいりません。テレビの最大音量の真前であろうと駅の雑踏の中であろうと何の苦もなく勉強できるようになりました。
 私が働きながら学び、学びながら働く皆様を生涯の奉仕の対象にしたのは、自分自身の幼い頃の経験と無縁ではありません。家業の食料品店の店番と新聞配りをしながら年中無休で家計を支えてきたからこそ、今日に至るも年中無休で働けると思います。死ねば永遠に休暇が取れます。ですから生きている限りは年中無休で世の為、人の為、国の為に尽くして下さい。これが合格者の皆様へのお願いです。それから私の生いたちにも述べてますように、ご両親やご先祖様にたえず思いを馳せ家門に恥じない生き方をして下さい。
 フィリピンの話に戻りますが、レイテ沖海戦における特攻を含む父たちの働きがなければわが国はもっと悲惨な目に逢っていました。史上最強の誉れ高き皇軍である帝國陸軍の玉砕を恐れぬ働きがあったればこそ米軍の侵攻がくい止められ、友軍の円滑な撤収が保証されたのです。私たち日本人の先輩は四百年以上に及ぶアジアにおける白人の植民地支配を完全に終焉させ、その権益をすべて失わせしめました。大化19年の白村江の戦いに続いて史上二度目の軍事的敗北を余儀なくされたとはいえ、戦争目的を達した点からいえば世界史的な大勝利です。今日の民族自決、自立の現状はまさに私たちの先輩の偉大な働きのお陰であります。
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