手伝いこそが最良の学校である
ライセンスメイト篇
平成9年4月号「サイレントマジョリティ」
子供にとっての社会参加とは
最近の学生を採用して思うこと。家では全く手伝いをしてなかったのではないだろうか、と思うことがある。いろいろな理由もあるだろうが、大きな理由は、子供が少ないため余りにも母親の目が行き届きすぎていること。次なる理由は、電化による家事の合理化、3番目は子供を家事に動員させまいとする親の意識。しかし、将来これはゆゆしき問題となって顕在化してくるに違いない。子供にとっての社会参加はまずもって家事手伝いから開始される。それは、かりそめにもひとつの共同体維持のために不可欠の準備作業への参加に他ならないからだ。家の手伝い、親の手伝い、家事の手伝い、いわゆる「お手伝い」をして、家という共同体の構成要員であるという自覚が知らず知らずのうちに自然と形成されていく。
ところが今の若者は
共同社会の成員であるという経験も自覚もなしに、ゲストとして育てられ大学まで出してもらって、突然、利益社会のまっ只中にほうり出される。
つまり、利益とか利得とか利潤とか度外視された、いわば純粋奉仕の経験を幼児期から大学生まで全く経験させられなかった若者が、いきなり経験する社会が「利益社会」では本当に可哀想だ。彼らは「社会」なるものを「利益社会」としてはじめて経験することになるのだ。すなわち彼(彼女)らにとっては「利益社会」こそが「社会」そのものになってしまっている。利益社会の中にも共同社会の心意気と魂をもちこんでこそ、健全で力強いダイナミズムが民間企業の中に宿るというものだ。ゲストとして、お客様として「偏差値教育」だけで育てられた若者が奉仕概念など全くないままに、公務員をめざしている。彼(彼女)らにとって、最大の関心は9時・5時であり、週休2日であり、年休であり、退職金であり、年金給付である。公僕としての自覚など全く育てられることなく、官公庁に入っていく。だから県庁職員総ぐるみで、公金横領などしてしまうのだ。日経新聞の社説では福岡県庁は「盗人の巣窟」とまで書かれている。
五つのつとめ
私事にわたるが、以下はわが家の標語として昭和58年から昭和63年まで子供達に朝礼で唱和させたものである。
一、学校を休まない
一、手伝いをよくする
一、けんかをしない
一、わがままをいわない
一、みんなで協力し合う
わが家では保育園の頃から、子供には全ての家事をさせてきた。買い物、料理、洗い物、洗濯、弟妹の送り迎えetc…。勿論、カッターシャツのアイロンがけなどもさせてきた。わが家では「偏差値」ほどバカにされている指標はない。家族の中では「お手伝い」こそが最大の評価基準であった。学校の成績は二の次、三の次でしかない。なぜならそれは、①共同体のためのがんばりではなく、あくまで②子供本人のためのがんばりであるからだ。だから、②は①以上にはどうしても位置づけるわけにはいかない。
長女の手記
再び私事にわたるが、短期大学卒業後、就職した長女の手記を掲載させていただく。
子を持つお父さん、お母さん、また学校の先生、どうか「手伝いこそが最良の学校である」として「お手伝い」を奨励し、義務づけてもらいたい。