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中国江蘇省友好提携五周年記念 福岡県友好交流団に参加

ライセンスメイト篇

平成10年5月号「特集」

  “謝罪外史”“弱腰外史”と、日本の外交姿勢に批判の声が聞かれる中で、昨年10月、福岡県が中国江蘇省との友好提携五周年記念事業として同省に派遣した県代表団の団長、麻生渡知事が、現地の南京屠殺記念館で、献花式をしたことは周知のとおり。この記念事業の計画段階から「知事の献花」に反対の論陣を張り、県当局の執拗な参加辞退の説得をはねのけて、県代表団(民間団体の友好交流団)に参加した理事長(九州不動産専門学院グループ代表)小菅亥三郎氏の帰朝報告会「南京屠殺館への献花式問題を巡って」が2月1日、福岡市中央区天神1丁日の日本不動産専門学校で開かれた。主催は「日本を守る福岡県民会議」。約70人の参加者が会場を埋め、小菅理事長の献花反対活動の経過や現地の事情など、信念に貫かれた話に耳を傾けた。小菅理事長の行動は、無批判に前例を踏襲し、迎合を友好と勘遠いする県当局の無神経さに警鐘を鳴らしたものといえる。今号の特集は、通常とは趣を変えて、小菅理事長の帰朝報告会の内容をお伝えする。

英霊への畏敬の念で信念貫く

 報告会は、日本を守る福岡県民会議・梶栗勝敏事務局長の司会で進められた。

 若い世代の会・丸山廣事務局長の開会の辞、国歌斉唱に続いて小菅理事長が登壇した。

 小菅理事長は、献花式に反対する理由を「史実ではない“南京虐殺事件”を宣伝する屠殺記念館に献花をすることは、国の英霊を冒涜し、天に唾する行為であるからだ」とし「自分がやらずして誰がやる、という使命感で問題に取り組んだ」と力強く述べた。そして、一連の行動は、すべて自分の使命感、義務感に忠実であり続けたいという気持ちの発露であることを明らかにした。

 小菅理事長と県当局の折衝経過の報告では、県当局の「事なかれ主義」の姿勢が浮き彫りにされた。

 まず、南京屠殺記念館での麻生知事の献花は、江蘇省から要請があったわけではなく、県側が企画したことだったという。しかも、積極的に企画したのではなく、革新県政時代の一周年記念事業での友好団派遣の例に習ったものだった。

 さらに、今回の友好団派遣の計画段階での小菅理事長の献花式中止の申し入れに対しては、県当局は露骨に参加辞退を迫ったという。

 県の許認可で成り立つ専修学校の理事長という立場を考えれば、いわば人質を取られたうえでの折衝と同じだが、小菅理事長はあくまで信念を曲げなかった。

 結局、県当局は「一緒にご参加していただくことになりました」と、小菅理事長の友好交流団参加を認めるが、現地では小菅理事長に非常に気を使った対応をする。どこに行くにも、県の職員2人が小菅理事長に付き添ったのだという。「さすがに便所の中までは、ついてきませんでしたが」と小菅理事長は会場を笑わせた。

 小菅理事長の報告は、中国の庶民の生活の実態や、社会情勢、経済活動についての考察などにも及んだ。安易な妥協を許さない、筋の通った小菅理事長の報告を、参加者はメモを取りながら熱心に聞いた。

 質疑応答に続いて、県議会で知事の献花式問題を代表質問した自民党・内田壮平県議の議会報告、全九州学生文化会議・宮原和久教育局長の閉会の辞で、報告会は幕を閉じた。

小菅理事長の報告要旨(抜粋)

はじめに

 私が、県知事の献花問題に対してこういう反応をするのは、私の生いたちと関係があります。

 私の父は海軍の軍人で、霞ケ浦の海軍航空隊で飛行機の搭乗員の養成をしていました。フィリピンのルソン島の基地に赴任しましたが、昭和20年の2月11日、父の26歳の誕生日に台湾の高雄に脱出することになりました。しかし乗機はエンジントラブルでルソン島に引き返し川に不時着しました。たまたま同乗していた陸軍の上官の指揮で、部隊の24人は米軍の制圧地域に入り、川原で一夜を過ごしますが翌朝、米軍の一斉射撃で父を除く23人が戦死しました。父は川を潜って脱出し、飛び立った基地に再び戻りました。

 父からこの話を何度も聞かされるうちに、戦死した23人の方はさぞやくやしかっただろうと思いました。私は昭和22年12月3日の生まれです。父から戦後生まれた唯一の男子です。戦死した23人の生まれ代わりという気持ちです。私が23人の方々の思いを体現しないと、そこで途切れてしまう。23人の方々が生きていたらどういう発言をするか、どういう行動をするかを常に念頭に置いて、私は行動しています。父を含めて、24人は、こういう場合は多分、こうするだろうと考えて生きてゆかないと申し訳ないという気持ちがあるのです。

事実経過

 県と江蘇省は平成4年、奥田八二知事時代に友好提携をしています。そして、一、三周年記念事業で南京屠殺記念館に、献花をしていますが、献花がなぜ始まったのかは定かでありません。五周年の今回の友好交流団は県専修学校各種学校協会と他に二つの分野から参加者が募られました。

 県専修学校各種学校協会から8月30日に私に届いた募集案内の書類の日程表を見ると、3日目の予定に「南京虐殺記念館献花式」とありました。これに対して私は「これは取り外してもらわなければならない」と申し入れしました。9月1日、同協会に口頭で参加を申し込みました。その際「これはどうにかなりませんか」といいましたが「県にいってくれ」ということでした。私は、日本を守る福岡県民会議の梶栗事務局長に連絡をとり、内田県議に真相究明を依頼しました。

 その後、交流団派遣を企画した財団法人県国際交流センターの課長から呼ばれて「ご理解のうえでご参加いただきたい。ご理解いただかなければ…」と意味不明のことをいわれたり、県の担当課と同センターの来訪を受けて参加辞退を求められました。私は断りました。辞退すれば、私が反省したことになるからです。

 それまでにも、辞退のサゼッションは何度かあっていました。また、同センターの説明では、献花は県側が企画したもので、江蘇省側からは何の要請もないということでした。

 内田県議は、県議会でこの問題をとり上げて質問しました。県知事の答弁は「献花は南京事件で亡くなられた方に対して弔意を表すため」というものでした。

 結局、内田県議の奔走もあり、条件をつけられながらも参加できることになりました。出発ぎりぎりの10月22日、同センターの事務局長らが来訪して「今までの非礼をおわびの上、一緒にご参加していただくことになりました」と告げました。時間切れを狙ったんですね。それで、26日から30日まで江蘇省を訪問しました。

参加者名簿を見て感じたこと

 友好交流団には、社会的に名の通った方が大勢おられたが、あのスケジュールに疑問をお感じにならなかったのでしょうか。感じなかったら「見識」が疑われるし、感じても黙っているなら「勇気」が疑われます。

 しかし、執ように辞退を迫られるとうっとうしくなる。相手は「あなた一人が障害だ」という具合に展開してくる。自分の信念を貫く強さが必要です。

 同センターは、「小菅さんはこのスケジュールに反対なのでしょう。だったら参加するのは矛盾じゃありませんか」という論法でした。私は「主催者が現地で何をするか分からないから抑止力として参加するのです」と答えました。

 今回、内田県議、日本を守る福岡県民会議の皆さんには勇気を与えられました。

なぜ献花式に反対するのか

 まずもって、国の英霊に対する冒涜であり、祖先、天に唾する行為だと思うからです。

 人は悪いことを親のせい、学校のせい、社会のせいと転嫁します。そうすると、終局的にはわが国の歴史と、その中心の皇室の否定につながっていきます。実は、これが先方の狙いであり、最終目標だと思うのです。

 だいたい「南京虐殺」などということは歴史的事実ではありません。資料はたくさんあります。

 献花式は迎賓原則に反すると思います。決して「友好」や「親善」の名目では成り立ちません。間違いなく県側のゴマすりのはずです。100%悪しき前例となるでしょう。

 私は使命感と義務感に終生忠実であり続けたいという気持ちで行動しました。ものいわぬ英霊に代わって私がやらなければ、誰がやりましょうか。

阻止するために考えたこと

 献花を阻止するために私が考えた戦術は担当者との直接談判でした。

 ところがAさんの所を訪ねればBさんのせいにする、Bさんを訪ねればCさんと、たらい回しにされました。私はくたびれ果ててしまいました。相手の策略ですね。

 このほかに、実行したのは知事への投書、日本を守る県民会議への応援要請、内田県議への連絡、マスコミへの情報提供、学院グループの広報誌『資格と成功の本』での発表と送りつけです。ほかにもありましたが、県の方が「それは止めてくれ」と頼んだものもありました。

安全のために考えたこと

 行動を起こす時は、身を守ることも同時に考えなければなりません。

 まず、可能な限り行動を公開することです。マスコミを使うのもよいでしょう。衆人監視の状況を作ってゆく。私の場合、逐一、スケジュールを学校に連絡していました。

 一人ぼっちの時間を作らないことです。私は二人で行きました。絶えず目撃者を同行させることが必要です。

 敵と戦うなら、息の長い情宣活動を展開することが大切です。正しい情報の不断の発信と無限的拡大こそが自分を守り、家族を守り、職場を守り、地域と国と民族の栄光を守ります。沈黙は決して金にあらずです。国際的には「サイレンス イズ コンサーン」の評価しか受けません。

中華人民共和国とはどんな国なのか

 分かりやすく表現すれば「三民主義ならぬ3ナイ主義にもとずく全体主義国家」「3ナイ国家」ともいえましょう。笑顔がナイ、譲り合いがナイ、働きがナイ…と私は感じました。

 女性に笑顔がありません。デパートの店員さんも手当なしでは笑わないんじゃないですか。今回ほど日本の女性を美しく感じたことはありません。

 交通法規はあってなきが如し。譲り合いなどありません。人はどこでも横断します。意見の全面展開が日常不断に要求される風土です。譲り合いは弱者の敗北ととられるようですね。

 「労働」という概念はあっても「勤労」という意識はないのではないでしょうか。生きる喜びを感じるために働く-「勤労感謝の日」は世界でも日本にしかないのかもしれませんね。

 真の国際交流とは、相手のすべてを認め合って、そのうえ、何ができるかということでしょう。今回の江蘇省訪問でそういうことを感じました。