「踏み絵」
ライセンスメイト篇
平成10年10月号「サイレントマジョリティ」
「天皇と皇室に対する見解を述べよ」…①
「大東亜戦争に対する評価を述べよ」…②
「尖閣・竹島に対する態度を述べよ」…③
過ぐる7月の参院選の渦中、票の取りまとめの依頼にこられたある候補者(H)の秘書(O)に私が尋ねたことをまとめてみた。野球部で投手をやっていたという長身の青年はとっさの答えに窮したと見え、あわてて話題をそらした。消費税の罪をあげつらい、政官財界の腐敗と堕落を追求し、この国を「根っこから変える!!」と静かに語るその青年の姿に好感はもちながらも、この問いかけにまっこうから回答しようとしない態度にはいささかがっかりもした。
私は再度、冒頭の問いかけをした。が、やはり即答を避けようとする彼は「候補者本人か、責任ある者(=上司)から明日必ず連絡をさせる」と約束をしてそつなく去っていった。7月10日(金)に来られたから明日とは翌7月11日(土)のことである。しかし、この原稿を出稿する段になった8月の15日(土)に至るも何の回答もない。理由は判らないが、政治活動をする人の態度としては及第点はあげられない。
このことに付随して思い出した話がある。私は市内の病院に骨折で入院したことがあるが、その時リハビリでお世話になった職員がある日突然訪ねてきた。理由はこうだ。「この度、社会保険労務士に通った。長い間の受験勉強から解放されてうれしい。この喜びを一人だけで享受するのは申し訳ない。周囲の人にも是非この喜びを分かち与えたい。それはあなたに『聖教新聞』を読んでいただくことだ。私は喜びの余り、これを是非あなたにおすすめしたい。これがあなたへのご恩返しだ」要旨は大体こうだったと思う。
私は彼に対してこう答えた。「合格お目出とう。今後のご健斗を祈る。ところで新聞購読の件はその新聞社の主張をお尋ねしてから決めよう」かくして、私は冒頭の質問をした。彼の答えはこうだった。
①天皇とか皇室とか神道は邪教である。
②大東亜戦争はその邪教に導かれた戦争であり侵略戦争である。
③尖閣・竹島についてはコメントなし。
「あなたにはかつて大変お世話になった。重ねてお礼をいう。また、この度の合格もまことに喜ばしいことだし、今後のご活躍を祈る。ただ、この新聞の購読はしない。それは私と正反対の考えだからだ」。私の態度に彼は一寸困っていたふうだがこうきり返してきた。「細かいことには目をつむって3ヶ月だけでもお付き合いとして購読していただけないか」。私は即座に答えた「それでは細かいことには目をつむって3ヶ月だけでも靖國神社に参拝していただけないか」。この回答が決定打だったらしく、彼は私への勧誘を諦めて帰っていった。
およそ、人との関係をとりむすぶ時、それもどうしても政治的見解が介在せざるをえない人間関係が開始される時、私は必ず冒頭の問いかけをすることにしている。「踏み絵」を提示することで、それこそその人の「根っこ」の部分に、共有性と一体性が感じとれるか否かを瞬時に判断するようにしている。共有性と一体性を確認してのちに人間関係を結んでも決しておそくはないからだ。
世の中にはこういう問いかけをすることなく(=下ごころを見抜く努力をすることなく)、依頼人の「人物鑑定」だけで責任あるポジションを引き受ける人もいる。しかし、注意すべきことは「何となく感じのいい人」でも「反日的・売国的な人」がゴマンといるということだ。「頭が良く」ても「立派でない人」も世の中には沢山いる。「お金持ち」でも「品格のない人」も巷にあふれている。だから「感じがよく、知性的な人」がお願いに来たからといって武装解除する訳にはいかない。必ず依頼にきた人の「下ごころ」を見抜く技術が必要である。少なくとも「愛国的」か、「売国的」かの識別をするくらいの質問項目は日頃から準備しておく政治的嗅覚と用心深さは必要と思われる。そうでなければ、これからの国際化時代は1日も生きられない。
悪魔の解答
(1)売国的・反日的な諸政策を実行するための選択肢のひとつに政界に出ることがある。
(2)政界に出るためには選挙で当選しなければならない。
(3)当選するためには、それだけの集票作戦を展開し、現実の集票に成功しなければならない。
(4)しかし、売国的・反日的な人たちだけではとても当選するだけの集票は見込めない。
(5)ここで質問、これでも政界に出ようとする時は、一体何をなすべきか。短期的・中期的・長期的な戦略を述べよ。(解答をお寄せ下さい)