閉じる

メニュー

中締めにあたり(その1)

ライセンスメイト篇

平成12年2月号「サイレントマジョリティ 不況に勝ち抜く経営学講座7」

 「自信喪失不況」とはこういうことだ。戦後、我が国の辿った経済成長も頂上にさしかかった平成5年(これも結果としての頂上であるが)、当時の細川首相の行った「侵略戦争発言」がある。

 一国のトップが、かつて祖国防衛のために散華していった2,133,752柱にものぼる英霊を評価するに、敵国の、というより東京裁判史観を基準にするまでに至ったということ、すなわち戦勝国が敗戦国を「道義的に(?)」「裁く」ために用いた史観や価値基準を、こともあろうに敗戦当事国である我が国の首相までもが用いるようになったのが、あの「戦争責任発言」である。

 事態はここから急転回する。謙譲の美徳などという言葉や概念すらない、なうての国が相手である。「お前が自分の口で進んで『悪うございました』と言ったじゃないか。さあ次は態度で示せ。このおとしまえはどうつけてくれるんじゃ」こうスゴまれる結果になってしまった。「口は災いの門」というが、事の重大さとその広がりに色をなした細川首相は度肝をぬかれて敵前逃亡した。

 しかし、問題はこれだけにはとどまらなかった。我が国の国民生活や経済活動等のあらゆる局面で「自信喪失」がおこったのである。軍事的敗北による屈従を経済的勝利をもって何とか雪辱せんと奮闘してきた半世紀の労苦は、謝罪表現を繰り返す外交的敗北によって「第2の敗戦」ともいえる状況に置きかえられたのである。

 教科書問題、学級崩壊問題、少子化問題等、すべてはこの「外交面における自信喪失」に端を発している。人間とはメンタルなものである。出自と家系に自信と誇りを持たせることが、どれだけその人をして強力で崇高な行為に迫車をかける結果になるかは図り知れないものがある。かつて、私たちの祖先は「通からん者は音にも聞け、我こそは」と己れの出自と家系を明らかにすることにより、自らを奮いたたせ戦いに臨んだのである。

 逆に祖先や国家や同胞を恥じらう気持がいかほどその人をして人生を委縮させるかも事実である。少子化問題もこのことに原因の大半はある。また、ややもすればなげやり的になる今日の風潮もこのことに端を発している。こういう全般的な世相の中では決して不況など克服できるものではない。いみじくもレーニンがいっているではないか。「その国を滅ぼすのに軍事力はいらない。その国の歴史や祖先を恥じらう風潮を若者の中に作り上げてしまえばそれで事足りる」と。そういう意味では細川首相の言動は万死に値すると筆者は思っている。

 「時短操短不況」とは以下の理由による。それは完全週休2日制を官公庁だけが実行するならまだしも、その存立を「売上」のみに依存せざるをえない民間企業にまで強制したことである。アダムスミスの国富論ではないが、その国の富の源泉はその国の民の投下した仕事時間の総和と質で決定される。

 我が国で通常勤務のスタイルで仕事に没頭できる人員を仮に4,000万人としよう。週休2日制の実施により、年間に喪失させた業務時間は相当なものに昇るはずだ。ここでは喪失させられた曜日を一応「土曜=半ドン=4時間業務」と仮定しよう。年間は52週だから、4,000万人×4時間×52週=83億2千万時間が毎年喪失し続けている。

 これは24時間開けているコンビニでいえば、10万店舗を約10年間開業できる時間だ。8時間勤務の社員を1万人かかえている年間240日稼働の大企業なら、毎年433社づつ失っている計算である。