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ビデオ「講義」という大ウソ(その1)

ライセンスメイト篇

平成11年4月号「サイレントマジョリティ」

 巷に沢山の社会人学校があるが栄枯盛衰の激しい業界だけに年々歳々大変な激戦模様を呈してきている。各社各様のサービスを提供して「吾こそは一番」とアピールに余念がない。ただ、どうしてもいただけないことがひとつある。それはビデオ「講義」という代物であり、宣伝だ。ビデオに収録された講義(といっても大体は一人芝居だが)の映像を流すことによって、講義を「再現」し、それを受講生に見せることによって、講義を「実行」したとふれこみ、高額の鑑賞料を徴収する手法である。

 ここでひとつ考えていただきたいことがある。それは「講義」という概念は「ビデオ放映」では成立しないということだ。先生と生徒による双方向のシステム以外に安易に講義とか授業といった語彙は用いるべきではない。教室という特定された空間で先生と生徒がかたや教え、かたや授かるという関係性の行為を「講義」という。この前提的確認なくして「学校」という概念は成立しない。なお、ここではいれものであるハードの校舎をいっているのではない。

 だからビデオ「講義」という用語はそもそもありえないし、あえていえばビデオ「鑑賞」とでも表現するのが正しい国語の使い方であろう。それは丁度、レコード「演奏」といわないのと同じことだ。コンサートに出席したり、オーケストラで演奏したりするのと、レコードを鑑賞するのは全く別次元の行為である。レコードは演奏の缶詰であり、決して演奏のライブではない。

 講義とか授業とかはまずもってライブであることが必須の条件であろう。生身の人間同士の双方向のぶつかりあいであり、指導・被指導の関係でなくてなにゆえ講義と呼ぶことができるであろうか。だから「ビデオ講義」といういい方は国語の誤った用い方以外の何物でもないことがお判りいただけるはずだ。しかるにビデオ「講義」という語彙をそれこそ洪水のように用いることにより、多くの勉学の志をもつ人たちをミスリードしているのが今日の多くの社会人学校の実態なのだ。

 そのために多くの弊害も出てきている。まず第1に、そしてこれは決定的なことであるが先生との触れ合いができないということである。画面に登場する講師は所詮映像でしかない。言葉を交すこともできないし、挨拶してもかえってくるわけでもない。握手することもできず、「今晩、ご一緒にお食事でも…」というわけにもいかない。「先生のお住いは…」と尋ねることもどうかと思うし、「先生がこの資格を取ろうとされた動機は…」などと聞いてもこれまたナンセンスな話である。なにせ、相手は画面の中の映像なのだ。いわんや講義の中身や内容について即、その場で質問し、解答してくれるなどということは夢のまた夢の話でしかない。双方向のライブでないがゆえの弊害であろう。要するに1人で本の「紙面」を読むのと一緒だ。その紙面が「画面」にかわっただけにすぎない。

 弊害の第2は同じように学ぶ者同士の触れ合いがないことだろう。この手合の学校(自称)や会社は一般的にこの仕掛けのために「ブース」という設備を使う。完全に1人きりになれる空間をスタンバイしてあげるというつもりだろう。それもそのはず、映画館でやるように集合して鑑賞させたのでは高額な受講料はいただけない。せいぜい1講義2~3時間で1,500~2,000円が世間相場だろう。現に映画館はそれでやりくりしている。しかし、これではとてもじゃないが学校(自称)の経営は立ちゆかない。それゆえ、進度の違い、入学時期の違いという負の条件を解消してあげますと称してブースに囲い込んでいく。これで受講生を「大切にしています」ということにするのだろう。しかし、果たして、これが「人を大切にする」ことになるのだろうか。

 考えても見よ。入学される人は全てある種の志を胸に秘めている。わかりやすくいえば「成功」を志ざしている。しかし、「成功」とはたった1人では成就しない。また、資格試験に合格しただけではとても手中にできるものではない。多くの人の協力や支援と本人の努力や才覚といったものが結びついてはじめて成功があるのだ。それを自分自身の成功だけを顧慮し、ブースに通い、先生に挨拶することもなく(画面ゆえ挨拶もできない)、ひとりコッソリとスイッチをONにし、じっと画面を見る。そして所定の時間、映像を鑑賞し、最後にスイッチをOFFにし、先生に帰りの挨拶をするでもなく、ただ黙って出ていく。何ともはや、やりきれない風景だ。