ビデオ「講義」という大ウソ(その3)
ライセンスメイト篇
平成11年6月号「サイレントマジョリティ」
以上のサイクルの中には「偕(とも)に」という契機が全くできない。人は皆と共にしか生きていけないし、人と共に協力してしか成功はしない。ブースでは同期の人という意識も芽ばえなければ、同じ机を並べて勉強したという思い出も出来ない。まさに「隣は何をする人ぞ」のクールな人間関係しかできようがない。要するに人と協調してやっていこうという行為に背を向けるネクラの合格者しか作れないのがこのシステムだ。だから合格しても成功できない、という結果になる。本物の学校とは先生と生徒との生きた交流はいわずもがな、生徒同士の交流をも制度上、授業の中に契機づけられていなくてはならない。なぜかといえば、学校を出て、次に行くところは社会なのだから。要するに人・人・人の入り乱れる只中に資格をひっさげて、入り込んでいかなくてはいけないということだ。だからネクラでガリ勉型秀才では合格はしても、決して成功はおぼつかない。つまり目標(合格)は達しても、目的(成功)は達せられないという結果になってしまう。
人生の目的は何も成功だけではない、という考え方もあろう。しかし、社会人学校への入学を意図している人の大半は成功に目的を置いている。その目的を達成するために複数の手段があるとすれば、「合格」とはいわばそれらの手段のひとつにすぎない。すなわち合格(目標)と成功(目的)との間には天と地ほどの聞きがある。そして、その開きを少しでも補ってくれるのが、「人」であり「偕に(人と共に)」という心掛けであり、人との触れ合いを大切にする心意気ではないだろうか。その大切なものを養っていくのが「学校」でなくして何であろうか。そうでなければそれはただの「校舎」でしかない。触れ合いがなければ家庭はただの家屋でしかない。家屋のために家庭を犠牲にするとしたら、それは目的と手段の甚だしい混同であろう。家庭に相当するのは学校であり、家屋に相当するのが校舎・校庭である。
社会人学校とは徹頭徹尾、受講生の目的(成功)にこだわらなくてはいけない。それなくして社会人学校の「社会的使命」はないであろう。であればこそ、それへの阻害要因でしかないビデオ鑑賞などすすめるべきではないだろう。いわんやビデオ「講義」などと僣称して販売するなどもってのほかである。これは、生徒の目的(成功)など全く省みることなく、学校(自称)の成功しか考えない経営方針からしか出てこない販売戦略・営業戦略であることをユーザーである受講者はもっとリアルに見極める必要があろう。本物の学校にとって提供できる商品とは先生と生徒との触れ合いを通した生徒同士の触れ合い、絆でなくして一体何であろうか。