「ボー・グエン・ザップ」と「モト・ハイ」
フェイスブック篇
平成25年10月14日
今日14日の産經だが、ベトナムで抗米戦争の英雄、ボー・グエン・ザップの国葬が行われた。葬儀は4日で大勢の国民が見送ったと伝えている。孫文が支那大陸の武昌において辛亥革命を開始した年に生まれているので102歳で亡くなった事になる。
彼は若かりし日にファン・ボイ・チャウの私塾に通っていた。ファン・ボイ・チャウは、清仏戦争でフランスに負けた支那が、賠償の一部としてフランスに差し出された時のベトナムの憂国の士である。宗主国から裏切られた彼が、フランスより強いロシアを破った日本に「臣下の礼」をとり、祖国の主権回復を達成しようと奔走したのは、当時としては至極当たり前の行為であった。
犬養毅を訪ねた彼は、日本に朝貢し臣下の礼をとるので、フランス人どもを追い出してくれと言った。犬養はそれに対して「自分の国は自分で守るものだ。日本はそのための協力は惜しまないが、自分は何もしないで他人に血を流してもらおうというのは料簡が違う。」と諭したという。
恥じ入ったファンは祖国から若者を呼んで日本で学ばせる。まず世界を知り、戦い方を知る東遊運動は、かくして我が国・日本で開始された。息の長い抵抗運動の誕生である。
祖国に帰ったファンは東遊運動をベトナムで広げるために私塾を始めた。ベトナム版松下村塾である。そしてそこに通っていたのが20代から30代にかけてのボー・グエン・ザップである。ベトナムは大東亜戦争の後、まずフランスと戦ったが、彼らの軍隊は「モト・ハイ」といった。ベトナム語でモトは「いち」、ハイは「に」を言う。ロシアを破った憧れの日本軍が、昭和16年からベトナムに進駐していたときに「いちにっ」と行進したことに因んだ名だ。
日本仕込みの彼らは後にアメリカを破る。硫黄島での日本軍の戦い方を教訓化し、全土に地下壕を張り巡らせたことは余りにも有名な話だ。ついでに背後から攻めてきた支那の傀儡ポルポトも倒す。それを恨んで中共が攻め込んだが、木っ端微塵に粉砕される。すなわちベトナムは東遊運動で学び蓄えた資質によって仏、米、支の3ヶ国全てを打ち負かしたことになる。
大東亜戦争に従軍した勇士の皆さんが、いくつになっても10代、20代に戦われた時の話に夢中になるように、ボー・グエン・ザップにとってもファンの東遊運動やベトナム版松下村塾、そして「モト・ハイ」は生涯の忘れえぬ思い出だったに違いない。
明治、大正、そして昭和20年までの我が国が生んだ優等生の一人がベトナムであり、ボー・グエン・ザップであった。精神面における我が国の大いなる覚醒と発奮が望まれるところだ。