孫の運動会「良かったこと」と「良くなかったこと」
フェイスブック篇
平成25年10月3日
先月の9月29日、鹿児島に嫁いだ長女の長女(初孫で小6)の小学校最後の運動会に行ってきた。西伊敷にある創立40年目の小学校である。
まず新幹線を利用したJR博多駅でビックリ。切符を売る女性は全員が制服ネクタイ着用でキリット引き締まった感じ、しかしそこの男性は全員がノータイでだらしない、何がクールビズかと思う、男女が逆じゃないか。
さて運動会の話に移ろう。
まず第1に個人競技は「かけっこ」だけで、他は全て集団競技、集団演技で日本的共同社会構築の淵源ここにあり、子供のときからこうして鍛えられていく。
第2は地域全体が支えあっている風でマネージとして捉えれば、専従は教師、実行委員は地域住民(選抜)、選手は児童と思えば分かりやすい。
第3は学校の伝統を徹底して周知させる念の入れようは大変なもの。とにかく「40周年」なのだ。
第4は「協力」「和」「絆」等、共同社会を作っていくために不可欠な心のあり方を象徴する語彙が飛び交い、教師は「誠心誠意」と背中に書かれたお揃いのジャージを着用する徹底ぶりだ。
第5は競技結果を発表する際、敗者への思いやりの言葉が随所に出てくる。
第6は教師も児童も総じて動きがキビキビしていて相当の訓練が積まれたものと察せられた。
第7は最後の挨拶で校長先生が児童を放射状に向けて参加している保護者や地域住民の皆さんにお礼の挨拶をさせたのには驚いた。
次は改善して頂きたい事を列記する。
まず第1は会場に掲げられた万国旗だがある国がなくてない国があった。東日本大震災で200億円以上もの義捐金を拠出してくれた中華民国(台湾)の国旗が掲げられてないのに、前世紀末に消滅したはずのソヴィエト社会主義共和国連邦の国旗が混じっていた。古い仕様なら変えないといけない。
第2は男女児童の服装が全く一緒でまるで区別がつかない。「男は男らしく、女は女らしく」育てないと伝統的な秩序が崩れていく。そこで育つのは「人権意識」だけだ。
第3は当日の次第に国旗掲揚と国歌演奏はあるが国歌斉唱がない。私が1人規律して歌っただけで地域の皆さんはじっと座ったままだ。何故か「皆さん、ご起立下さい」のアナウンスが流されない。児童が無言で整列しているだけで教育の基本がなってない。
第4は国旗掲揚台の位置が校庭の端で、しかもボールとかが民家に飛ばないように張られているフェンスの外側にある始末。そのため国旗掲揚が恐ろしくしにくい形となっている。結果、整列から競技から表彰までのすべてが国旗掲揚台と国旗に尻を向けて行われる。こうして6年間国旗に尻を向けるように徹底して叩き込まれる。
第5は開会式では国歌を歌わなかったのに、閉会式では「大きい声で校歌を歌いましょう」と地域住民にまで促す倒錯にはまるで気づいてないかのようだ。
第6は我が国の行進曲が流されたのだろうか。戦前の行進曲は外国のだけで我が国のは使われず。一体どこの国の児童の運動会か見当がつかない。
第7は集団訓練は行き届いているが、日本人、日本国民として自覚させ、意識させていく工夫が全く施されていないため、ここからは人一般か生産者、消費者しか生まれないし育たない。これでは国民は出来ないし民族は途絶える。
「諸君は、我が国の運命が風前の灯だった幕末から明治にかけて、近代日本の礎を築き、欧米列強の侵略を頑として跳ね除けた薩摩藩の末裔であることを、誇りに思い、片時も忘れずに学業に励んでもらいたい。そして人として大成してもらいたい。その上で蓄えた力をお国のために大いに役立たせてもらいたい。そうであってこそ薩摩の先輩諸氏も喜んでくれるだろう。」的な訓示を期待していたが全くあてが外れた。
およそ初等中等教育の「使命、目的」は国民を作る、この一点に尽きる。
そのための「手段」として集団行動を教え、集団訓練を施す。その格好の「目標」が運動会ではないのだろうか。
例えば「選手団入場」なるアナウンスで入場行進が行われたが、私には目的が間違っているように思えて仕方がない。「郷に入れば郷に従え」では済まされないような気がする。フェイスブックの仲間の皆さんはいかが思われるだろうか。