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修学旅行への提案(1) ウズベキスタン

ライセンスメイト篇

平成15年6月号「人と意見 シリーズ修学旅行 教程その3」

 1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本人捕虜が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。

 表題下の枠はウズベキスタンの首郁タシケント市にあるナヴォイ劇場の側面に埋め込まれているプレートの一節である。

 ウズベキスタン独立後、カリーモフ大統領の指示により「日本人捕虜」が「日本国民」に書き改められたが、当時のソ連各地で日本人抑留者が様々な公共建造物の建設に携わったことをこのプレートは示している。

日本人の作ったものは全て良い

 ウズベキスタンとはカスピ海の東に位置する44万7,400km2(日本の約1.2倍)の国である。

 北部と西部のカザフスタン、南部のトルクメニスタン、東部のキルギス、タジキスタンと4ヶ国に囲まれ、2,470万人の人口を擁している。

 中央アジアに位置するこの国に昭和20年から21年にかけて約2万5千人のわが国の兵士が極東から強制連行され、重労働に従事したが、そのうち812人が望郷の念むなしく、この地で亡くなり、13ヶ所に埋葬された。彼らはほかでもない大東亜戦争も末期の昭和20年8月におけるソ連の参戦によって満州で捕虜になった日本軍人であった。抑留者となった彼らはタシケントのナヴォイ劇場、ベガバードの水力発電所や運河等の建設に従事したが、ナヴォイ劇場は、昭和41年の大地震の時にビクともしなかった  ことで有名になった。日本人が作った物は頑丈で全て良いという語り草になっている。

国家事業にまでなった日本人抑留者の墓地整備

 よほど日本人の働きが素晴らしかったのだろう。これまで4ヶ所の墓地が整備されていたが、平成14年5月、「日本人墓地整備と鎮魂の碑建設発起人会」の活動により、ウズベキスタン政府が国家事業として全ての墓地を整備するという。発起人会から墓地の所在する市の学校にコンピューターを寄贈する予定ときく。

 なお、これに先立つ同年3月に発起人会は全ての日本人墓地とタシケント市の中央公園等に桜の苗木計1,300本を植樹。同年5月には日本人墓地の全てに鎮魂の碑が、4つの市に日本人抑留者記念碑が設置された。

尊厳を失わなかった日本軍捕虜

 炎天下で汗みどろになって建設に精だす日本人捕虜を見て、現地の人々は色々なものを収容所の鉄条網の下から差し入れてくれたという。

 インフラの整備にあたって当時の日本人の手にかかってないものはないというほど国中くまなく配置され使われていったのだろう。そして、自らも共産主義の軛(くさび)につながれていた当地ウズベキスタンの人々はわれわれの先達に対しても同情を禁じえなかったのだろう。

 現地の人々は、収容所から建設現場に赴く時も一日の作業が終わり再び収容所に帰る時も、日本人指揮官の号令一下整然と隊列を組んで行進していくさまに深い感銘を覚えたという。

 勝利した軍隊よりはるかに秩序と統制のとれた「軍隊」を目のあたりにし、しかも人間としての矜持をいささかも失っていない「捕虜」と接し、彼らは大いに身を正し、発奮した。

日本人のようになれ!が合言葉

 収容所の鉄条網の下には翌朝必ず「お返し」が置いてあったという。器用な兵士たちは木で椅子や家具を作ったりしながら、差し入れてくれた見ず知らずの人に「お礼」をしたのだろう。

 日本人のようになれ!そして日本人のようであれ!とは、①戦いの帰趨は時の運、たとえ負けても人間の尊厳・矜持を失ってはならぬ、②秩序を重んじ、つねに礼儀正しくあれ、③人から好意を受けたら感謝の念を忘れず必ずお礼(お返し)をしろ、④労働を忌み嫌うな、むしろ喜びとせよ、⑤物作りの大切さを知れ、だという。

道義の聖火ランナーになろう

 現代のわが国に住む私達が聞くと恥ずかしくなりそうなことだが、当時のわが国の先輩が地球的規模で広めるに至った道義の松明(たいまつ)を決して消してはいけない。(聖火ランナーではないが、途切れた時が心配だ。)

 この松明を燃やし続け、次代に引き継がせていくのが私たちの民族的かつ国家的責務である。否むしろ世界史的責務でもあるだろう。

 お隣・支那の南京屠殺館とは全く趣を異にしたかの地・ウズベキスタンの日本人抑留者記念碑を参観に行き、現地の人々の日本人観に耳を傾けた方がよっぽど多感な時代の青年男女に訴えるものがあると思うのは私だけであろうか。研修を兼ねた修学旅行の目的地にひとつ加えていただきたいものである。ちなみに料金は支那と大差ないとのことだ。