閉じる

メニュー

修学旅行のかたち 昭和30年代の思い出

ライセンスメイト篇

平成15年12月号「人と意見 シリーズ修学旅行 教程その7」

小さい頃の思い出

 私の小さい頃の修学旅行は、必ずといっていい程大部屋で宿泊した。

男女が別れて就寝することも何の疑問も抵抗もなく受け入れた。先生が引率しそのあとに 何百人という学生服の集団がついていった。全国どこでも目にするおなじみの光景だった。 目的地といえば京都や奈良といった古都か、製鉄所や自動車工場といった製造現場だった。

自給自足

 出発前の準備といえば、どこの家庭でも母親が必要なものを揃えてくれた。私などは何を準備したかを詳細に記したメモを渡してもらったものだ。今はもうない話だが、「お米」も持っていった。「1人3合」とかと量の決まりがあり、それをリュックサックに入れて宿についたところで出し合った。自分たちの食扶は自分たちでもっていき宿泊する宿屋で炊いてもらっていた。それが夕食や朝食のご飯になり、宿泊料金を軽減する効果となった。

宿屋で先生は

 先生は先生で別室で赤い顔をしてお酒を飲んでいた。今、思えば久かたぶりの集団行動で懇親を深め合っていたのだろう。(しかし、おかしな話である。それは生徒が米を拠出して、下まで透き通るような味噌汁で食事をしているのに、ごちそうとお酒とは。本来ならば引率してきた生徒たちと同じものを食べ、かつ、一緒に風呂に入り、同じ部屋で床をとるべきであろう。要するに『先生と寝食を共にする』という生徒にとっては生涯に一度の体験を教え子にプレゼントするには絶好の機会であったと思うのだが。)

予習・復習

 目的地・目的物については予め学習があり、しっかりと叩き込まれた。どのみち後日提出しなければならない宿題のために、生徒は必死に勉強した。私たち男子生徒は、お目当ての女子生徒にどうやって声をかけようかと苦心惨憺したものだ。結局はそういう機会に恵まれることもなく、集団行動のみが先行していったような気がする。

便りと外出

 目的地の宿ではお馴染みの枕の投げ合い等もしたが、高校生ともなると町の「歌声喫茶」 にでも行く位の心のゆとりも出てきた。現地の絵葉書で家の両親に便りを出すことも極普通に行われた。

車に酔う

 途中、必ずといっていい程、車に弱い者が出た。バスの前のほうに座らせ、その前にはバケツが置かれた。今ほど舗装がゆき届いていない時代であったため、縦揺れ、横揺れも相当なものだった。バスの天井に頭をぶつけるほどはね上がることも珍らしくなかった。しかし車酔いにもめげず、当時の生徒は皆良く辛抱した。そして家に得意気になって便りを出し、お土産を買った。又、担任の先生がそれを指導した。

なぜ記録するか

 思いつくまま昔日の修学旅行(昭和30年代)のことを書いてみたが、こんなことを文章化することはほとんどないであろう。しかし、こうしておかないと後の人にとっては、その時代の原型に触れることは不可能になってしまう。それゆえ今回、私の育ってきた中学・高校時代のことをあえて記述してみることにした。

教訓の宝庫

 ①集団生活の中にも性別配慮のあった時代、②団体行動を基本としつつも個人的行動の自由を許容したおおらかさ、③わが国の歴史や文化をその存在自体が顕現している目的地選定、④親孝行という行為があたり前に指導されたこと、⑤お米持参という自給自足の作風、⑥予習・復習の大切さ、⑦車酔いする仲間への配慮、等々。

 現在の修学旅行の中で、上記の契機のうち、いかほどのものが残っているのだろうか。 今度、尋ねてみようと思っている。