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憲法成立の過程

ライセンスメイト篇

平成9年12月号「サイレントマジョリティ」

 日本国憲法は、大東亜戦争敗戦後2年もたたない頃作成公布された。国家の最高法規である憲法が、戦後の混乱期国民誰もが生活のため、食を求めて狂奔している頃、極めて短期間で作成されたものである。

 果して充分検討されて作成されたものか、これが第一の疑問である。敗戦後天皇も政府も占領下にあって、一切の権限が連合軍最高司令官に隷属していた時のことである。

 当時の日本国民は、憲法改正など望んでいる者は誰も居なかった。改正の必要はなく、当時現存していた大日本帝國憲法で、充分民主主義化は可能である、というのが憲法学者達大方の意見でもあった。ここが大事なところである、つまり国民の多数の意志に反して現在の憲法は作られたのである。

 敗戦の悲しさ、占領軍の指示示唆によって政府は「憲法問題調査委員会」を設置、昭和20年10月27日から検討に入った。そして翌年、昭和21年2月8日に総司令部に改正案として提出した。しかし、これはあっさり拒否された。最初から、日本案を採用する意志はなかったのである。

 逆に総司令部が作成した「総司令部案」を2月13日手渡され、之に基いて若干の修正をし出来上がったのが現憲法である。総司令部案は、占領軍の軍人達が僅か2週間で速成したものである。

 2月13日午前10時、外相官邸で日米の会談が行われた。憲法調査小委員報告書「日本国憲法制定の由来」(時事通信社)によると、時の松本国務大臣は、後になって自由党憲法調査会で、その時の経緯を次の様に口述している。

 総司令部のホイットニー民政局長は厳しい口調で、日本政府から出された改正案は司令部にとって承認出来るものでない。こちらの案は、アメリカ本国はもとより司令部、連合国極東委員会のいずれにも認められたものである。マッカーサー元帥は、かねてから天皇の保持について深甚なる考慮をしているが、日本政府が私(ホイットニー)の出した案に沿った憲法改正案を作成することは、天皇問題を解決するために必要である。そうで無ければ天皇の身分は保障出来ない。

 我々は日本政府に、総司令部案に沿った改正案の提示を求めるものではない。しかし、この提案の基本原則や根本形態を同じくする改正案をすみやかに作成し、提出される様切望する、というものである。

 ホイットニー発言は、その後の憲法審議、特に総司令部案に反対する意見表明に少なからず影響を与える事になる。日本は憲法改正問題で総司令部から脅迫されたのである。この総司令部案を基に、日本側は草案を書き上げ3月4日、総司令部に提出した。その日、午後6時過ぎ、日本側も参加して英訳と逐条審議をして「憲法改正草案要項」が完成したのである。

 その翌日、3月5日、マッカーサー元帥が承認、6月の閣議を経て正式に決定、その時の閣議の模様は「日本国憲法制定の由来」で、入江俊郎参考人は大要次の様に述べている。以下、松本国務大臣の話である。

 実は、昨日4日、総司令部から頻りに言ってくるので、取り敢えず日本の案を持って行った。之は向うに見せれば、何とか向うも考えるのであろうし、その間にこちらも考える余地があると思っていたら一気に案が進んでしまった。閣僚に対し誠に申訳ない事になった。しかし之も相手のある事でやむを得なかった。こういう案では、これが日本で作った改正案だと言って発表する事は内閣の責任上どうであろうか。実は司令部側は、これは日本で作った自主的な案として発表しろ、それをアメリカ側も英訳して発表し承認する、と言う趣旨のことをアメリカ側は言っておった。それに対して、5日の閣議でもそれはどうもあまりにもひどいと言う皆の心持ちであった。明治憲法でも案を作るのに1年以上かかった。今日本の憲法を全般的に改正しようと言うのに、2日や3日で、之を作って、これが日本の自主的な案だと言うのは内閣として実につらい。声涙共に下る話を色々言われたが、議論の結果、結局之に従う外はあるまい、と言う事になった。以上が現憲法成立の経過である。一国の憲法が、戦後50年経過しても尚国民の間に定着せず改憲論から無効論まで叫ばれるのは、そもそもその誕生に大きな原因があるのである。

文責 小菅紀武吾