閉じる

メニュー

女性と微笑み

ライセンスメイト篇

平成10年7月号「サイレントマジョリティ」

 支那(大陸)にいった方ならすでにご承知と思うが女性の表情はまるで能面のようである。とにかく彼女たちは笑わない。というより笑みがない。それはまるで笑うと損をするとでも思っているかのようだ。これが、どういう考え(=思想又は文化)に基づく現象なのか、あるいはいつの時代から始まったものなのか、外国人の私には知る由もない。しかし、とにかくはっきりしていることは、その顔に自然にわきあがる柔和な笑みが全くないことである。大半が日本人と思われる読者諸氏は「まさか」と思われるかも知れないが、事実そうなのだ。

 上海に進出しているデパートの伊勢丹が売場の社員教育で最も苦労しているひとつにこのスマイルがあげられる。「欲しい人に欲しい物を売ってあげるのになぜ笑みが必要なのか?」まともにこう問いかけてくる女子販売員があとを絶たないという。「相手は必要なものを買いに来ただけだ。だからそれを代金と引き換えに提供してやればいいことであって、何も愛想笑いすることもないではないか」というのが彼女たちの論法という。

 コンビニで買い物をしてもレジの女性が腕組みをしている姿はザラに見かける。中にはレジスターに肘をかけて金額を打ち込んでいるケースだってある。もちろん彼女たちにも全く笑みがない。

 上海の家具店にいった時は女子店員が5~6人集って私語に打ち興じていた。来店客のことなど一顧だにしない。私語の輪から外れるのも名残り惜しそうに1人の店員がつき始めたのは私が入店してからやっと5分もしてからだった。ここでも彼女たちには笑みがない。まるで見張られているような感じがする。

 南京で長江のふもとのエレベーターに乗った時など(エレベーターガールというより)エレベーターおばさんは自分の専用の椅子を持ちこんで座ってオペレーションをしていた。ここでも全く愛想がない。

 大宴会場で給仕を受ける時など、それこそ多数のウェイトレスがひしめくことになるが、ここでも笑みがない。何か、われわれ日本人には憮然として仕事をしているように見えて仕方がない。

 こんなことを書いていると、延々とそれこそ迷路にはまりこんでいくようで、気が重くなっていくばかりだ。微笑みがこれほど社会の潤滑油になっているのだということを今回ほど気づいたことはない。わが国の女性はそれこそ自然とスマイルが出る。これは天賦の才とでもいっていいだろう。その才に気づいていないのは多分本人たちだけだ。わが国の女性は、それもいつの時代からか定かではないが、柔和な微笑みの才にたけてきた。

 飛鳥時代に唐招提寺を建立した鑑真和尚はわが国の仏像をその盲目の手で捺でまわし、その繊細さ、柔和さ、真の強さに強く魅かれたという。彼は今の福建省から何度も日本に渡航を試みながらも失敗し、首尾よく日本にたどりついた時には盲目になっていた。仏の教えを伝えようとした彼は、わが国の仏像をその手でむさぼるように触れ、「この国の民はすでに仏の心を悟っている、私には何も教えることがない」といったという。

 読者諸氏には、彌勒菩薩の像を思い描いてもらいたい。私たち、日本人のもつ微笑みの伝説はあの時代にすでにあったのだということは仏教伝来の前か後かはさておき、相当古い時代まで遡上ることができると思う。

 それに比へて支那の仏像はギョロ目玉をムキ出しにして何ら心安らぐことはない。仏教は支那や朝鮮を経由はしたがそこでは開花はしなかった。ギョロ目玉として残ってはいるが、仏の教えが花開いたのはわが国、日本であったのだ。仏の教えは、最東端に位置する微笑みの国日本においてはじめて実を結んだといえるだろう。そのことからして、私見ではあるが、仏教伝来以前からわが国には微笑みの風土があったと思われる。ということからすると、支那人の女性に微笑みを求めてもそれは無理からぬことと思う。民族性、国民性とかいうものに属することであろう。私は改めて、日本女性の素晴らしさを発見した!そのものごしの柔かさ、優しさをいたく感じた。

 ことさら教わったわけでもないのに自然体で微笑むことができるということは世界に誇る国民的財産、民族的伝統といっても過言ではない。私たちはそのことにますます確信を新たにし、自信をもって後世に継承させていかなければならない。