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国民皆兵ノススメ(その1)

ライセンスメイト篇

平成10年12月号「サイレントマジョリティ」

 かつてわが国は地雷禁止条約に調印した。これはカナダのパフォーマンスにひっかかった歴史的愚挙といってよいだろう。カナダの平和維持部隊はボスニアで相当悪虐非道なことを行っている。それがため全て撤退を余儀なくされてしまった。窮余の一策が地雷禁止のアピールだ。これで国際的非難をかわそうとしたパフォーマンスにまんまとはまったのがわが政府首脳と人権屋たちであった。

 遡ること今からざっと100年前の支那でも同じようなことがなされている。どうも白人という人種は弱小国や彼らが思い描いている劣等人種たる有色人種に暴虐の限りを尽くす習性があるらしい。19世紀末に勃発した北清事変の際に、白人諸勢力が演じた支那人への虐殺やレイプ行為は現在のカナダのそれと同種のものと思われる。

 当時、白人列強の侵略にほとほと頭を悩ました支那では「滅洋扶支」を唱える集団が北部を中心に勢力を拡大していった。彼らは、義和拳という特殊な拳法を駆使したため「義和団」と呼ばれていた。呪文をとなえることにより、銃弾が貫通しても死なないと信じていた彼らはそれこそ素手で西欧の白人部隊にたちむかっていった。反白人勢力の中枢勢力たる彼らがやったことは北京郊外の在支英国人の包囲殲滅であった。しかし、頼みの綱の英国は余りに遠くて動きがとれない。

 日英同盟が締結されるはるか前の話である。英国は万策尽きてわが国に援軍の急派を要請してきた。現在と違って当時のわが政府首班にはまだ「武士(もののふ)」の気概が横溢していた。「義を見てせざるは勇なきなり」とそれこそ即座に対応した。白人諸勢力の中に唯一アジア人の軍隊として登場したわが皇軍はそれこそめざましい働きをし、見事全ての英国人を救出したのである。連合軍の戦死者645人のうち何と644人がわが国の兵士だった。

 しかし、問題はむしろここから始まっている。戦勝気分に酔う白人軍隊の中で最も野蛮な振舞をしたのはロシアだった。最も遅れて参戦し、一発の砲火を交えることもなく終結を迎えた彼らがやったことは、それこそ飢えた狼のごとく支那人に襲いかかり虐殺、強姦、略奪、放火の限りを尽くしたという。

 それらに比較すると、わが国の軍隊の律儀さ、礼儀正しさ、公正さは群を抜いていた。というよりも、別次元のレベルだったという。当時の支那人の学生や若い人たちの中に急速に親日的なムードが拡まっていったのは丁度この時からだ。

 こういう強く、礼儀正しい兵士を育て、擁している日本とはどういう国だろうかと真剣に考えた彼らは陸続とわが国に渡ってきた。孫文や蒋介石をはじめ幾多の若き支那人と共に建国の理想に燃える若き朝鮮人も沢山わが国に渡ってきた。

 彼らの目的はただひとつ、強い軍隊をつくるための指針とノウハウをものにすることだった。そして、それを建国のバネにすることだった。つまり、建軍抜きにとうてい建国など考えられなかったのである。要するにわが国の明治の先達と同様、彼らも「ノーマルであり「あたりまえ」であったのだ。

(次号に続く)