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在特会判決に思う

フェイスブック篇

平成26年7月11日

ノブレスオブリージュという言葉がありますが、わかりやすく言えば、東大生が特攻機で米空母に体当たりして艦載機が飛び立てないようにすることで我が国への都市爆撃を防ぎ、東大に行けなかった人たちを守り抜く行為と思ったらいいと思います。私たち日本人の文化では、名家を含むエリートほど先頭に立って勇気を示し、犠牲となる覚悟が問われる品格ある生き方をしなければならないことになっています。陣頭指揮という言葉が示す通り、我が国の戦(いくさ)の歴史では指揮する側の戦死率、戦傷率が、他国に群を抜いて圧倒的に高かったのはその文化のなせる業でした。名実ともに大国(道義大国、文化大国、歴史大国の意)の国民たるに相応しい気風といえるでしょう。

強いて言えばこれが「特権」だったのです。だから朝鮮人は「徴用」はするが、敗色が濃くなった終戦間際まで「徴兵」しなかったのです。台湾人は「軍属」では取るが、なかなか「軍人」にはしなかったのです。血書嘆願してまで彼らが帝國陸海軍に志願したのはそういう高貴で名誉ある自己犠牲的な伝統文化への帰依と同時に戦争を担うに値する国民(当事者)になんなんとする強烈な意思表示でもあったのです。(大東亜戦争当時のわが国の人口は1億564万人、うち台湾の日本人626万人、朝鮮の日本人2591万人で内地の日本人の比率は70%です。しかし戦死者では総計2,132,915人のうち台湾の日本人27,846人、朝鮮の日本人21,181人で内地の日本人の比率は98%です。まさにノブレスオブリージュの極みとはこのことではないでしょうか。)

それが今の時代の特権、とりわけ在日外国人、それも特亜に祖国を持つ在日外国人に与えられている特権とは一体何でしょうか。それは我が国の富を目当てにユスリタカリを欲しいままにし、弱いと見たら骨の髄までしゃぶりつくす特権で、我が国が伝統的に大切にしてきたノブレスオブリージュ的な特権とはおよそ似ても似つかぬ代物です。

「在日特権を許さない市民の会」(在特会)のメンバーらが、京都朝鮮第一初級学校(京都市、現・京都朝鮮初級学校)の周辺で繰り広げた人種差別的な表現の演説や街頭宣伝(ヘイトスピーチ)に対し、朝鮮学校側が名誉毀損にあたるとして損害賠償を求めていた裁判の控訴審で、2審の大阪高裁は7月8日、在特会側の控訴を棄却し、1審の京都地裁に続いて在特会側に約1226万円の高額賠償と街宣の差し止めを命じています。

しかし在特会の皆さんに会場を貸与した経験から言えば、「在特会は危険な団体だから貸与するな」と押しかけてこられた皆さんこそ、会場を提供する側にとっては危険で迷惑な存在でした。また罵声を浴びせるにしても、聞くに堪えないような言葉を発しているのはむしろその人たちでした。私の接した限りではむしろ在特会の皆さんの方がはるかに紳士的でした。

ヘイトスピーチと言いますが、慰安婦の像を建てるという行為、すなわちヘイトアクションと比べれば一体何なのでしょうか。人種差別的な表現と言いますが、事実を言ったのか、虚言を弄したのか、が争点であるべきと思います。設置を認めてあげている日本人への罵詈雑言(ヘイトスピーチ)で満ち満ちている、「群馬の森」のみならず国内いたるところに存在する朝鮮人碑のようなヘイトモニュメントこそ問題にされるべきだと思います。