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団長挨拶

ライセンスメイト篇

平成18年5月号「祝辞 台湾慰霊訪問の旅によせて」

今をさかのぼること112年前の明治27年(西暦1894年)7月、わが国は朝鮮の帰属をめぐって支那(清国)と戦端を開くこととなった。8ヶ月間に及ぶ戦いの結果、わが国は勝利し、翌28年(1895年)4月17日に山口県下関の春帆樓で講和条約が調印され、その条文は次のようになっている。

日清講和条約 第二条

  清国ハ左記ノ土地ノ主権並ニ

  該地方ニ在ル、城塁、兵器製造所

  及官有物ヲ永遠日本国ニ割與ス

   一,遼東半島

   二,台湾全島及其ノ附属諸島嶼

   三,澎湖列島

「日清講和条約」の関係資料は現在日清講和記念館(昭和12年建設/山口県下関市阿弥陀寺町)に展示されている。

 そこを案内する台湾ガイドは、「第二条」を指差し、この条文によって台湾の運命が決まったと述べ、小国・日本が大国・清を破った、我々も頑張ればできないことはない、と独立心を強調する、という。

 条約締結後、50年に亘ってわが国は台湾を統治した。その結果、当時の政府と国民の渾身の努力により、欧米列強も羨むほどの「麗しの島・台湾」が誕生した。しかるに、昭和16年(西暦1941年)から3年と9ヶ月に亘って戦われた大東亜戦争により20年(1945年)にわが国は敗戦。ポッダム宣言に基づき、台湾から引き揚げざるを得なくなった。その後、支那大陸での国共内戦に敗れた蒋介石率いる亡命政権(国民党)が台湾に逃れてきた。

 苛酷な圧政に苦しみながらも日本精神を胸に秘め、日本人としての誇りを断固守り抜いてきた台湾。九州より一寸小さい面積の島国に、九州の倍近い人口を擁し、駐留米軍の一兵卒も置かず、自らの力で国土を護持してきた台湾。国民皆兵を堅持し、大陸支那の共産党独裁政権と互角にわたりあってきた台湾。そして、民主的で東洋一豊かで情のある国を作ろうと勤勉に努力している台湾。かくなる台湾は日本統治時代に築かれた「均衡の取れた情熱溢れる国づくり・人づくり・物づくりの精神」と「公心を大切にする伝統」なくしては語り得ない。

 私たちは、このような台湾の現状に真摯に向き合うと同時に、全島各地で今なお祀られ顕彰されているわが国の軍人・軍属の英霊、ならびに大東亜解放の偉業に日本軍と共に殉じ散華された台湾人元日本兵軍人軍属の英霊に追悼の誠を献げんと平成11年3月に開始したのが「海の彼方のニッポン・台湾を訪ねて」の慰霊訪問の旅である。

 今号では開始以来7年間に及ぶ全行程を振り返ることにより、なお一層多くの皆様にこの試みをご理解いただくと共に、日台両国民の家族交流・兄弟交流の絆及び美風を継承し発展させるために不可欠の橋頭堡を築いていきたいと思っている。

「台湾はけっして共産中国の一部ではない」「台湾の主人公は台湾人である」という極めてあたりまえの事実を国内外の人に認知してもらうために、かくも長く苦闘の歴史を辿っている国家・国民に対し、また元同胞に対して無関心ではいられない。私たちは民主台湾の現状と台湾人の誇りある歴史を知る者として大東亜解放と台湾の自立に寄与され斃れられたすべての先達にこの特集を献げるものである。