ひとり暮らしはトレンディか
ライセンスメイト篇
平成9年5月号「サイレントマジョリティ」
ひと頃、娘が「1人暮らし」をさせて欲しいと言い出してきかない時があった。これは、わが家に限ったことでなく一般的世相の感がする。私は娘に「1人暮らし」をしたい理由を聞いてみた。理由はこうだ。①周囲に1人暮らしをしている友達が多い、②いろんな意思決定を親に頼らず1人でやってみたい、③帰宅時刻について親にとやかく言われたくない、④親の目を気にせず気にいった友だちを家に呼びたい。etc.
丁度、その頃、テレビでは「1人暮らし」の若者をめぐる男女のドラマが進行中であった。また娘の読んでいる何とかいう雑誌には「1人暮らしはカッコイイ」なるタイトルで特集が組まれていた。
1人暮らしが許される正当な理由とは
私は娘の話を良く聞いた上で次のように回答することにした。子供が大きくなって親元を離れていくには次の理由が必要であること。①進学する学校が遠方で通学が不可能、②就職先が遠方で通勤が不可能、③家が狭くて足の踏み場もないこと。ちなみに私は学生時代3畳1間、うち1畳の上半分は押入れ、よって実質2畳だった。結婚した時は6畳1間、子供が3人できるまでは1K、4人になってから2DK、5人すなわち家族7人になってから3DKに移った。
娘は①、②、③とも理由が満たされていないことが判ったからか、次のように言ってきた。「それでは私は一生お父さん、お母さんと一緒なのか。」私はこれにはこう回答した。「違う。④それは私たち親はお前たちより先に死ぬ。だから、それから先、十分「1人暮らし」ができる。それに、私たちが死ななくても⑤お前たちが結婚する時には、堂々とこの家を出ていっていい」と。
わがままと自立の混同
「1人暮らし」をしてみたい、この甘い響きの中に、「自助・自立・自存・自衛」のための闘いにわが身を投じていく覚悟や気概はさほどない。理由があるとすれば、せいぜい「家を出たい」そして「気ままに暮らしたい」という気持ぐらいだ。食っていく、生活していくということは「闘い」そのものである。また新居を構えるということは「経営」そのものである。それなりの気合とコストが当然必要になってくる。淡い気持でできるはずがない。要するに動機がなってないということだ。
世の中で一番大切なもの「家族」
よって家族は死とか嫁入りとかない限り一緒であるべきだ。世の中を秩序づけ、体系づけている最小で最大の構成要素を人は家族と呼ぶ。また家族は補充が効かないし、簡単に作れるものでもない。群れをなして暮らしていく基本的な単位は家族から始まるし、人はその中に生まれ、その群れに見とられて死んでいく。それゆえ、よほどのことでもない限り、家族をひき裂くことはできないし、そうするべきでもない。できる限り一緒に暮らしていくべきだし、また、そのために親子ともども社会性を養っていくことが肝要である。
同じ釜の飯を食う、とはよくいったもので、それが家族というものだ。これから嫁入りしていく娘にむかって「大変なことがあったらいつでも帰ってこい」という親が増えていると聞く。「家を出る」、そして「新居を構える」ということは、遊びやゲームとは違う。新しい家族を己れの責任において創造していく命懸けの飛躍なのだ。要は、このことを子供にしっかりと言い含めておかないとゲーム感覚で家を出ることになる。ゲーム感覚だからちょっとした苦痛が伴うと離婚だ、何だといって簡単に別れてしまう。そして、また「出戻り」として実家に戻ってくる。子供をしっかりと教育して「出戻り」にさせないことも親の責任である。
今、娘は「1人暮らし」をさせて欲しいとは言わない。