ビデオ「講義」という大ウソ(その2)
ライセンスメイト篇
平成11年5月号「サイレントマジョリティ」
弊害の第3は表向きは「講義」でも実体は「ビデオによる自習システム」なので、購入した側に「だまされた!」という思いを不断に与えてしまっていることだ。ただ多くの人は言っても仕方がないという思いからか表立ってクレームをつけないだけである。こういう状況では当然のことながら、販売する側もプライドをもてなくなっていく。だから、自己を「学校」として打ち出し、押し出していくことなどとてもできる相談ではない。自習システムの「販社」を「学校」と強弁することなどよほどの神経の持ち主でなければできることではない。また、もしそういう人が特定の企業に大量にいるとしたら、それは歩合給やマージンの為以外の何物でもない。空腹は自分のみならず他人をも惑わすのだ。
弊害の第4は以上展開してきた関係から当然お判りいただけると思うが、この手の企業には合格者の為の「祝賀会」やお世話になった先生方への「謝恩会」などの行事や概念が全く芽生えないことである。それもそのはず、相手はこのような「自習システム」を講義とうそぶいて売りつける販社である。販社にも創業○○周年祭や取り引き業者を招待してのパーティーはあるだろう。しかし、祝賀会や謝恩会などという企画は全く必要ないのだ。かわいそうなのは「学校」と思い、「入学した」と錯覚して販社から自習の機会を購入した人たちである。内心、ひそかに「歎された!」と思っている人が「支払済みのお金は所詮返してはくれないのだから」という諦めとも怒りともつかぬ契機で自習するのである。これでは祝賀会などとても出来るものではない。また画面の中の講師に対して謝恩会を催すとでもいうのであろうか。こんな奇特な人はどこにもいないだろう。また、「自習システム」を販売した販社は販社で自分たちが直接教授しているわけでもないので、「勝手に自習して」合格した人にさほどの愛情を感じることもないだろう。いわんや「祝賀会」を企画させていただこうなどという義理は感じようがない。要するに本人の合格や成功を商品と自認・自覚して、燃えるような使命感から体当たり教育している学校とは似ても似つかぬところである。どうして合格をお祝いする気などおころうか。答は「否」である。
弊害の第5は、「同窓会」が絶対に出来ないことである。てんでバラバラに自習システムにひたり、席を並べるでもなく、誰彼のお世話をするでもなく、ただじっと画面を見て、「結果」合格した人たちである。合格した途端にいきなり合格者「同士」になるわけはない。それもそのはず、本人たちは全く見ず知らずの間柄なのだ。言葉を交わすでもなく、バラバラな曜日、時間にブースという個室で自分1人だけの世界にひたり、己れのみの栄誉、栄達を考え、自習し、結果合格した人が何故同窓会というパートナーシップを結べるであろうか。教室での集合授業の良さは、お互いに譲り合い、助け合い、補い合うという社会生活上必須の気働きが要求され、醸成されることだ。
合格までの旅と合格してからの旅とでは勿論後者の方が圧倒的に長い。というより一生涯といっていいだろう。その時、かつての学び舎を思い起こさせてくれるのは同窓会をおいてない。同窓会に励まされ、同窓会に導かれがんばるということだってある。学校とか企業とかは短命に終わることもざらにあるのだ。その時頼りになるのは同窓会ではなかったのか。同窓会に参加して、今は亡き恩師や思い出のなかにしかない校舎や校庭や教室がよみがえってくるのである。勿論、同窓会は加入しようとするまいと自由である。私がいっているのはそういうことではない。そもそも構造上同窓会ができない運営システムのことをいっている。こういう文書を書いていると私の方がむしろだんだん暗く寂しくなってしまうくらいだ。